くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

 <あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [5]

2014-02-06 15:15:48 | はらだおさむ氏コーナー
虹麻繍品廠(1)


 「拝啓 上海市長殿」のビジネスは難航した。

中国側に「対外開放」はしたが実施細則もなく、「前例」のない手探り状態のなかでの商談であった。

一番の問題点は、日本側の「現物出資」、中古の設備をどう評価するかということであった。

窓口の上海市対外信託投資公司に専門家を帯同しての来日調査を要請したが、契約成立後でなければ海外出張は認められないと、交渉はデッドロックにのりあげた。

日本側からは設備の写真やスペック、とくにスイスから輸入されたこの刺繍機械の特徴などの資料が中国側に提出されてから半年あまりたったころ、貿易商談で来日中の中国工芸品公司の担当者から突然工場見学の申し入れがあった。

後から分かったことであるが、この音沙汰のなかった数ヶ月間、工芸品公司の欧州駐在員を通じて、この機械の新品、中古品の価格からその性能に至るまですべて調べ上げていたのである。

本社工場と箕面工場の見学のあと、箕面観光ホテルでヒトフロ浴びてハダカ同士の付き合いを始めることになる。

 それからの上海商談は工芸品公司上海分公司(のちの上海抽紗品進出口公司)が中心になって進められる。

窓口担当者は“山福”時代から旧知の実務責任者、工場立地予定先の上海県虹橋郷(現在の虹橋開発区の南)からも担当者が参加、土地と工場建設費用を現物出資することになり、日本50%、公司15%(現金)、地元35%の合弁契約(草案)がまとまった。

普段の交渉は弟の専務に任せていた社長が、サインの段階で突然口を開いた。

「ここは中国さんに1%余計に持ってもらったほうがよろしい」

1%譲ることは、董事の数が先方に1名増えることになる、日本3対中国4で、中国側がマジョリティを握り、董事会で話し合いがつかない

場合でも多数決で議決されてしまう、と反対したが、自説を曲げない。

最終的には私が非常勤董事になって双方のまとめ役になってほしいと頼まれて引き受けることになる。

これは合弁企業経営の実務勉強にはずいぶん役立ったが、後々までこの1%で振り回される羽目になる。

85年1月に調印、同7月機械設備の解体と機械操作の研修に男女20名が来日、本社工場の一隅で3ヶ月ほど自活することになる。

生活と待遇をめぐって、慣れぬもの同士の不協和音が頻発、当時上海友協から大阪中国語学院の講師に派遣されていたRさん(現A大学助教授)も間に入って音を上げるほどであった。    

(2004年7月13日 記)