くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾弐

2014-04-03 09:11:48 | はらだおさむ氏コーナー

さがしもの

いつものことだが、狭い書棚をひっくりかえしても探しものは見当たらずに、一冊の本に手が止まった。
『詩集 わたしの北京』
著者は、鹿島 龍男。
WHO?記憶が甦らない。
野間 宏の序文がある(一九八七年一月二七日)。
本に挟まれていた手紙には「・・・夫坂田輝昭の詩集を読みたいとご連絡を頂き・・・」とあった。
あぁ・・・、鹿島 龍男は坂田輝昭さんのペンネームであった。
かれの十三回忌に編まれた『峠の証言』は、最高裁まで行った「羽田事件」“被告”のドキュメンタリー風の作品であるが、この詩集は寄贈いただいた『峠の証言』への礼状で、わたしがおねだりしたものであった。
未亡人のお手紙では「・・・第三集もだしたかったようです」とある。
日中友好協会全国本部の専従役員として、日中国交回復のはるかむかしからその“活動”を支え、指導してこられた坂田輝昭さんとは、浅からぬおつきあいがあった。生前には日の目を見ることのなかった『峠の証言』の、その「証言」のいくつかには応対したこともあった。神田にあった本部の事務所で、上京の都度、よもやばなしに興じたが、文革中の広州交易会の「日中接待処(という名であったかどうか、現地での事務所)」ではピリピリした雰囲気であった。
この詩集の表題は『わたしの北京』とあるが、Ⅰ 季節外れの旅 Ⅱ わたしの北京 Ⅲ 五月、の三部作となっており、60年代の作品から85年の訪中時のものまで、20年間の作品から選び、編まれたものであろう。

野間 宏は序文で「幕あいのない舞台」をとりあげ、<怪しげに恐ろしいといってもよい詩である>と評している。
・・・・・・ 
  ひとつのドラマが終わり
  廻り舞台はどんな風景を用意しているのか
  登場するのは夜明けなのか
  それとも晩秋の季節なのか

  ・・・・・・
  今はプログラムがない時代
  今は幕あいのない時代
  新しい舞台に
  期待をかけ諦めてもいる時代

  さあドラマが始まる
  拍手をするのか席を立つのか
  静かに待っている客席を気にするな
  僕は怠惰だから何もしない


 さがしものを続けていても、やはり見当たらない。
 竹内 実先生の『中国という世界――人・風土・近代』(岩波新書)に目が留まった。表紙を開ける。「原田 修様  竹内 実 3/14 平21」と先生の自署があった。
 その序章に、例のカタカナのチュウゴクが出てくる。
 <チュウゴク>とは何か、と序章で提起された問題は、終章 <チュウゴクはどこへ>につながっていく。
 昨年の七月末に他界された竹内先生を偲ぶ会が催されたとき、わたしは先生の小品「王蒙さんのこと」を紹介・朗読した。
かねてからこの一文が先生のチュウゴク観の原点であり、また、わずか千二百字ほどの短文ながら、中国文芸史の数十年を「王蒙さんのこと」を中心に語り、まことに起承転結、さびの利いた、リズム感のあるすばらしいものと愛読していたからである。
 「新中国が成立しても、正直な話、わたしはあまりおどろかなかった。軍閥内戦時代、中国のいなか町に生まれ育ったせいで、政治的変化があるのが中国だという観念が、あたまのどこかにあったからかもしれない」と綴られていくこの一文は、先生の中国との原点であろう。
 結びは、このようになっている。
「先日、ようやく王蒙さんの自宅を訪問することができた。北京に伝統的な四号院で門は朱塗りだった。健在で、お元気だった。
 胡同(フートン=横町)についての随筆で、子供のころ父親の書斎には日本の書物があったと王蒙さんが記していたのを思いだし、質問した。東大の教育学部に留学した、よく日本人の来客があった、ただし軍人はひとりもいなかったといって、王蒙さんは微笑したのだった」
(初出『群像』1995年12月号、竹内実[中国論]自選集三<映像と文学>2009)

  さがしものは、なんだったのか。
  本をひもときながら、書き出していると忘れてしまった。
  年とはいえ、物忘れがひどくなってきている。
  そのヒントがなにか、・・・これも浮かんでこない。
  明日になれば、必要に迫られればまた思い出すことであろう(就寝)。

 
 おはようとパソコンのワードを開いている。
 もうさがしものは、どうでもいい。
 春の彼岸、中国の清明節もちかい、いまは死者との語らいのときだ。

 このところ、来日する中国の友人がすこしずつふえてきた。
現役をリタイアしたひとから、いつの間にか立派な肩書きのついた元留学生までさまざまだが、むつかしいはなしはしない。久闊を叙することしばし、アメリカで結婚した息子にこどもが出来た、ハーフだなぁ、国籍はどうなるのだろうか・・・、こどもが今年から中学生、へぇ~、いつの間に・・・、高橋真梨子の“桃色吐息”を歌っていたきみがねぇ~・・・と、はなしが回転する。
 だれも口にしないが、阪神・淡路のあの震災のとき、ひとりの女子留学生が倒壊した家の下敷きになって、不慮の死をとげた。上海出身の衛紅さん。92年の天皇訪中のとき、上海で皇后付の通訳として活躍したひと。
 あのとき、わたしの家も倒壊した。
 小学校の体育館で寝泊りし、電車がやっと開通して、事務所へ顔を出したとき、彼女の訃報を聞いた。結婚直後に単身来阪留学して、この地震に遭遇したのであった。彼女と同世代の元同僚たちは、いま、むかしばなしに興じ、中学生になろうとする子供たちのことを話し合う、“人到中年”になっている。
 かれらと同じ年ごろのとき、わたしはなにをしていたのだろうか。

 わたしも詩を書いていたときがあった。まとめたのは一集だけであった。
 これは「砂浜」と題する詩だが、なにを言いたかったのだろうか。

  砂浜に立った/波はよどんで押し寄せてきた
  砂は汗をふき出した/這いころばって逃げた

  砂浜に立った/漁船はインポテのようだった
  わずかな成果にうちふるえていた/ヘドを吐いて消えていった

  ・・・・・・
  ・・・・・・

  砂浜に立った/よどんだ波が押し寄せてきた
  足もとをくずして行った/にらみつけてやった

  砂浜に立った
                  (詩集「ふくらみ」より)

  
さがしものは、どうなったのか・・・                        
                       (2014年3月5日 記)