タテマエとホンネ
あのときも、そうであった。
わたしの乗っていたタクシーが自転車と接触、人もろともに倒れた。
タクシーのドライバーは、かけ下りた。
わたしは倒れた人を助け起こすのだと思ったが、接触したボンネットの傷の有無をチェックするや、クルマを発進させた。
自転車の人はやっと立ち上がり、集まりはじめた野次馬に大声で助けを求めた。運転手は窓を開けて、どなりつけ、“逃げるが勝ち”とばかり現場を離れた。
まだ自転車が中心の、上海の朝のラッシュ時であった。
これは、文革の前ごろのことになるだろうか。
北京の胡同の夫婦げんかの、はなしである。
おかみさんが金盥(かなだらい)をたたきながら表へ飛び出して、大声で叫ぶ。ウチのヤロウが・・・・・、ジャン、ジャン、ジャン・・・。
まるで江戸時代の、長屋の夫婦げんか、そのものであったらしい。
まぁみんな、聞いておくれよ、というのは街のケンカでも同じである。
群集が取り巻く。
声の大きい方が有利か、お節介野郎が仲介しようとすると、火に油を注いだように騒ぎが大きくなる。
台湾総統の、はじめての民選のとき。
中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込むと威嚇した。
アメリカの空母が出動し、騒ぎが大きくなった。
終わってみれば、エライ人の長男が中台合弁企業の中枢に座り、工場の所在地は“タイワン特区”になっていた。
だれが得をしたのか、中長期で見ればこの判断は、ムツカシイ。
そのヒトが始皇帝のように泰山に登り、孔子が復活した。
ロープウエイや入山の料金がはねあがり、ふもとに豪壮な人民政府の庁舎が出現した。
ガイドは、孔子様のおかげと片目をつぶったが、あのときの“批林批孔”は聞いたことがないという。政治は、いつもウエのヒトが操っている?のか。
十年ひとむかしというから、二十年ほど前は大昔、中国は「一国二通貨」で、人民元と外貨兌換券(FEC)があったのだが、いまでは知らない人も多くなった。
改革開放に入った八十年代から、外貨管理のために発行されたこの兌換券は、すべての外国人に適用された。友諠商店など、いわゆるドルショップでは、この兌換券があれば街にはない商品も手に入り、当然のことながら闇レート(50~80%アップ)が発生した。
外国人旅行者からこの兌換券を徴収して、支払いには人民元でとサヤ稼ぎをする旅行社の添乗員もいたようだが、そこには闇ブローカーも介在する。
ホテルの前で、ヘイ、マネーチェンジと、とぐろを巻くやからもよく見かけたが、偽札の人民元もずいぶんと流通していたようである。
ミレニアムの翌年、友人たちと西域のたびに出かけたことがある。
トルファンからクチヤまでは夜行列車、そこからカシュガルまで砂漠のなかをクルマで走り抜けた。随所に解放軍や屯田兵の基地があり、通信ケーブルを傷つけたものは即銃殺の張り札にはキモをつぶした。カシュガルからパキスタン国境に接するカラクリ湖にも足を延ばした。
楽しい思い出が浮かぶが、偽札事件のことを記そう。
カシュガルのホテルで両替をして、市内の百貨店で買い物をしようとしたメンバーのひとりが、わたしのところにすっ飛んで来た。ホテルで両替したばかりの百人民元が偽札だと・・・。兌換券は数年前に廃止され、百人民元が半年前に発行されたばかり。一般の中国人にとっては持ち慣れない、見慣れない高額紙幣とあって、買い物の支払い時にはいつも透かし見された(まだ偽札発見器は普及していなかった)ものだが、このときはどうわめいても、店員の眼力に従うしかない(わたしの両替した百人民元はセーフであった)。
しからば、この落とし前をどうするか。
“目には目を!”、両替したホテルのバーで使おうと衆議一決した。
予算はオーバーしたが、“偽札”百人民元は無事酒代に消えた。
そのころ、巷では闇人民元は少数民族、とくに西域からのものが多いとささやかれていた。
しかし、のちに中国の偽札発見器製造の技術交流に参画した日本の技術者によると、昨今では深圳あたりのものが多くなっているという。
偽札発見器の性能向上とイタチゴッコであるが、人民元そのものの印刷精度も高まって、それに対応する偽札をつくるにはかなりの技術力と資力?がいるという。
これは日本人技術者の語る“ホンネ”のはなしとして信用してもいいだろうが、人民元の国際化のなかで、アジア諸国で流通しかけているそれについては保証のかぎりではないとも。タイペイで人民元を差し出すと「ソーリー、タイピー、オンリ」と断られたが、これで正解であろう。
武吉次朗(元摂南大学教授、中国研究所顧問)さんの「新語が映す中国」は
毎号「新語」からみた時評で、いつも教えられることが多い。
今号(96)は、「官邸制」である。
昨年11月の中国共産党・三中全会で決定されたなかに出てくる。
本文で紹介されている汪玉凱教授のはなしにはおどろいた。
高級幹部の住宅は地方政府の提供、転任してもその居住権があるとかで、リタイアした幹部などは安く手に入れた住宅を売却したり、親族や知人に転貸してフトコロをふやす人が後を絶たないという。「三多幹部」とは、カネと女と家を沢山持っている幹部を揶揄する言葉らしいが、摘発されたある元副省長はなんと46軒もの住宅を持っていた、という。
これには制度としての“老幹部”への優遇措置が問題との指摘も。
中国人記者が、村山富市元首相の大分の自宅を訪問してその質素な生活ぶりにおどろいた話も紹介されているが、「幹部の財産公開」などが制度化される見込みも無い中国では、俎上にあがったとしてもその実現は望めまい。
ホンネとタテマエは、どちらが先でもいいが、少数民族の地区で漢族の支配が強まり、普通話(プートンフワ=標準中国語)の授業が必修科目になっていくと嘆くガイドたちに出会った。目の前には不似合いな大きな役所が並び、武装警察の駐屯地があった。彼女たちのはなしはNHKの中国語講座を聞くようであったが、その表情はさえなかった。
謝晋監督の名作「芙容鎮」のラストシーンが、思い浮かんできた。
(2014年2月25日 記)
あのときも、そうであった。
わたしの乗っていたタクシーが自転車と接触、人もろともに倒れた。
タクシーのドライバーは、かけ下りた。
わたしは倒れた人を助け起こすのだと思ったが、接触したボンネットの傷の有無をチェックするや、クルマを発進させた。
自転車の人はやっと立ち上がり、集まりはじめた野次馬に大声で助けを求めた。運転手は窓を開けて、どなりつけ、“逃げるが勝ち”とばかり現場を離れた。
まだ自転車が中心の、上海の朝のラッシュ時であった。
これは、文革の前ごろのことになるだろうか。
北京の胡同の夫婦げんかの、はなしである。
おかみさんが金盥(かなだらい)をたたきながら表へ飛び出して、大声で叫ぶ。ウチのヤロウが・・・・・、ジャン、ジャン、ジャン・・・。
まるで江戸時代の、長屋の夫婦げんか、そのものであったらしい。
まぁみんな、聞いておくれよ、というのは街のケンカでも同じである。
群集が取り巻く。
声の大きい方が有利か、お節介野郎が仲介しようとすると、火に油を注いだように騒ぎが大きくなる。
台湾総統の、はじめての民選のとき。
中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込むと威嚇した。
アメリカの空母が出動し、騒ぎが大きくなった。
終わってみれば、エライ人の長男が中台合弁企業の中枢に座り、工場の所在地は“タイワン特区”になっていた。
だれが得をしたのか、中長期で見ればこの判断は、ムツカシイ。
そのヒトが始皇帝のように泰山に登り、孔子が復活した。
ロープウエイや入山の料金がはねあがり、ふもとに豪壮な人民政府の庁舎が出現した。
ガイドは、孔子様のおかげと片目をつぶったが、あのときの“批林批孔”は聞いたことがないという。政治は、いつもウエのヒトが操っている?のか。
十年ひとむかしというから、二十年ほど前は大昔、中国は「一国二通貨」で、人民元と外貨兌換券(FEC)があったのだが、いまでは知らない人も多くなった。
改革開放に入った八十年代から、外貨管理のために発行されたこの兌換券は、すべての外国人に適用された。友諠商店など、いわゆるドルショップでは、この兌換券があれば街にはない商品も手に入り、当然のことながら闇レート(50~80%アップ)が発生した。
外国人旅行者からこの兌換券を徴収して、支払いには人民元でとサヤ稼ぎをする旅行社の添乗員もいたようだが、そこには闇ブローカーも介在する。
ホテルの前で、ヘイ、マネーチェンジと、とぐろを巻くやからもよく見かけたが、偽札の人民元もずいぶんと流通していたようである。
ミレニアムの翌年、友人たちと西域のたびに出かけたことがある。
トルファンからクチヤまでは夜行列車、そこからカシュガルまで砂漠のなかをクルマで走り抜けた。随所に解放軍や屯田兵の基地があり、通信ケーブルを傷つけたものは即銃殺の張り札にはキモをつぶした。カシュガルからパキスタン国境に接するカラクリ湖にも足を延ばした。
楽しい思い出が浮かぶが、偽札事件のことを記そう。
カシュガルのホテルで両替をして、市内の百貨店で買い物をしようとしたメンバーのひとりが、わたしのところにすっ飛んで来た。ホテルで両替したばかりの百人民元が偽札だと・・・。兌換券は数年前に廃止され、百人民元が半年前に発行されたばかり。一般の中国人にとっては持ち慣れない、見慣れない高額紙幣とあって、買い物の支払い時にはいつも透かし見された(まだ偽札発見器は普及していなかった)ものだが、このときはどうわめいても、店員の眼力に従うしかない(わたしの両替した百人民元はセーフであった)。
しからば、この落とし前をどうするか。
“目には目を!”、両替したホテルのバーで使おうと衆議一決した。
予算はオーバーしたが、“偽札”百人民元は無事酒代に消えた。
そのころ、巷では闇人民元は少数民族、とくに西域からのものが多いとささやかれていた。
しかし、のちに中国の偽札発見器製造の技術交流に参画した日本の技術者によると、昨今では深圳あたりのものが多くなっているという。
偽札発見器の性能向上とイタチゴッコであるが、人民元そのものの印刷精度も高まって、それに対応する偽札をつくるにはかなりの技術力と資力?がいるという。
これは日本人技術者の語る“ホンネ”のはなしとして信用してもいいだろうが、人民元の国際化のなかで、アジア諸国で流通しかけているそれについては保証のかぎりではないとも。タイペイで人民元を差し出すと「ソーリー、タイピー、オンリ」と断られたが、これで正解であろう。
武吉次朗(元摂南大学教授、中国研究所顧問)さんの「新語が映す中国」は
毎号「新語」からみた時評で、いつも教えられることが多い。
今号(96)は、「官邸制」である。
昨年11月の中国共産党・三中全会で決定されたなかに出てくる。
本文で紹介されている汪玉凱教授のはなしにはおどろいた。
高級幹部の住宅は地方政府の提供、転任してもその居住権があるとかで、リタイアした幹部などは安く手に入れた住宅を売却したり、親族や知人に転貸してフトコロをふやす人が後を絶たないという。「三多幹部」とは、カネと女と家を沢山持っている幹部を揶揄する言葉らしいが、摘発されたある元副省長はなんと46軒もの住宅を持っていた、という。
これには制度としての“老幹部”への優遇措置が問題との指摘も。
中国人記者が、村山富市元首相の大分の自宅を訪問してその質素な生活ぶりにおどろいた話も紹介されているが、「幹部の財産公開」などが制度化される見込みも無い中国では、俎上にあがったとしてもその実現は望めまい。
ホンネとタテマエは、どちらが先でもいいが、少数民族の地区で漢族の支配が強まり、普通話(プートンフワ=標準中国語)の授業が必修科目になっていくと嘆くガイドたちに出会った。目の前には不似合いな大きな役所が並び、武装警察の駐屯地があった。彼女たちのはなしはNHKの中国語講座を聞くようであったが、その表情はさえなかった。
謝晋監督の名作「芙容鎮」のラストシーンが、思い浮かんできた。
(2014年2月25日 記)