風が招(よ)ぶ
「3・11」のあと、当事者能力を喪失した東電と取り巻き御用学者の「想定外発言」を耳にして、怒り心頭に達したわたしたちであったが、それから一年が過ぎ、定期点検などですべての原発が停まったあと、その再稼動をめぐってまたぞろ政・官・学・財集団の怪しげな論理が再浮上してきている。
この一年、いろんなことを考えてきた。
原発施設の安全性も問題ではあるが、原発はそもそも「使用済み燃料」(ウランやプルトニウム)のリサイクル技術の確立が見込めないまま増設されてきた「欠陥発電装置」であること。そしてこの「リサイクル事業」に毎月各家庭から200円程度の費用が電気料金として徴収され、青森県六ヶ所村の「日本原燃」に注ぎ込まれて、その総額がすでに十数兆円に達していることなどはあまり公にされていない。
また、原発は水力や火力発電と異なり、一度運転をはじめると意のままに止められないので、特に夜間の余剰電力消化のため「揚水発電所」がその一体として敷設され、下流の河川や池から上流のダムへ揚水・貯水されて、昼間に必要に応じて「水力発電」するシステムが付帯している。しかし、この揚水発電所の建設費用は「原発」にはカウントされていない。
「原発」は安くて・安全で・クリーンな発電装置ではない。
これは、つくられた(偽造)「安全神話」なのである。
さらにいえば、原発は冷戦時代の産物であるといえるのかもしれない。
60年代の中葉、アメリカで開発された「溶融塩(トリウム)炉」はクリーンな発電装置として期待されたが、兵器としての「原爆」の原料になるウランやプルトニウムを生産しない原子炉であるがゆえに、76年に米政府により開発が禁止されている。
ノーモア・ヒロシマ!の日本人に、「原発」の安全性を強調する「平和教育」が70年代からはじめられたが、それは「大気汚染・公害反対」に便乗した「クリーンエネルギー」の宣伝でもあった。だれが、国民をあざむいたのか・・・。
日本の電圧は世界(220V)に通用しない100ボルトであり、明治以来の慣習をそのまま持続して、国の東西間で異なるサイクルを使用している。
さらに、供電・送電・配電を一手に扱う電力会社が地域独占体制として存在している。日本の電力は「政官財」の伏魔殿に支配されたまま今日に至るのであった。
「原発」廃絶のグランドデザインもプロセスも示されてはいないが、わたしは先ず現状の供・送・配電システムを分離し、新規供電事業の参入がしやすくなるシステムの構築が先決であろうと考えている(まだその供電率は1%台に過ぎない)。通信業界の、NTT寡占体制時代から今日をみれば、その実施は時間がかかっても不可能なことではない。経産省はその実施プランを暖めているようであるが、その実現を阻む「既得権益」集団の圧力も根強い。目先の「夏場電力不足」騒ぎのみに目を奪われていてはならないのである。
昨夏 東京の友人から「サロベツ原野の風車群」の暑中見舞いが届いた。
それは涼風を覚える美しい光景であったが、道路の両側に28基の風車が立ち並び、発電能力は一万戸/年の実需規模であるらしい。わたしは十余年前に見たトルファンの砂漠に立ち並ぶ風車群を思い出し、それのいまを見たくなった。風がわたしを招(よび)、わたしを西域へのたびに連れ出したのである。
ウルムチからトルファンへの道路は片道二車線に拡幅され、行き交うクルマでごった返していた。トルファンは降雨量が年間数ミリの乾燥地帯であるが、
この日の空模様は怪しい。発電基地の体感風速は20メートル級で、からだを風で押し倒されないように支えるのが精一杯であった。もちろん、提供写真(下)のような青空ではなかった。ガイドは一基千キロワットの発電量と説明するが、参加者のひとりは五百だろうなぁ、と。わたしは、まったくわかりませ~んだが、これは十余年前の牧歌的光景ではない、一大風力発電基地である。さらにクルマで走ること20分ほどの間にふたつの発電基地があった(一基地は未稼働)。
トルファンの風力発電基地(ブログ「中国写真ライフ」提供)
中国の風力発電メーカーは、欧米や日本より後発であるが、この数年、政府のバックアップもあって、その発電総容量は世界一となり、世界のベストテンに中国企業が四社ランキングされている(2010年)。ウルムチに本社のある新疆金風科技はデンマークのヴェスタスに次ぐ世界第二位のメーカーにかけのぼり、昨今ドイツ企業に資本参加、アメリカのイリノイ州に風力発電所を建設するなど海外進出も目覚しい。
「人民網日本語版」などによると、中国の発電総量の95%は未だ水力と火力で占められており、原子力を含めたその他風力、太陽光、地熱、バイオマスなどの発電はまだ総発電量の5%にすぎない。いまや中国の風力発電基地はトルファンのみにとどまらず、蒙古の大草原から山東半島や天津の海岸線にまで延び、その風力発電総設備容量は、昨年で六千五百万KWに達しているが、現状ではまだ中国の総発電量の1%にすぎない。将来的には10%台に達すると見られているが、その稼働率と送電ロスに改善点があるとの指摘がある。
砂漠からトルファン盆地に入ると、これまで見かけなかった石油井が連なり、炎が立ち昇っていた。ガス田もあるという。
翌日もめずらしく曇天で、ベゼクリク千仏洞の見学を終えるころから雨粒がポツポツと落ちはじめ、さすがの火焰山も燃えるようには見えない。おかげで前回は45度の炎暑で見送った交河古城も杖をたよりに全て参観することができた。夕食はディナーショウであった、それなりの出来栄えと思えたが、前回のように、夕食後、地元の人たちとぶどう棚の下で輪になって踊るチャンスはなかった。
トルファン市の郊外で、今回はじめてウイグル族のイスラム風共同墓地をいくつか見かけた。そのいずれもが新設のもので、メッカの方に向かっている。ガイドによると、それぞれが集落とその家族の墓で、大きさや造作に貧富の差があらわれているという。この新生事物をどうみるのか、少数民族政策の変化の兆しであるのかもしれない。
この旅の最後の晩餐会は、上海のバンドを浦東側から望めるレストランで催された。ひさしぶりに五年ものの紹興酒でのどを潤し、旅の疲れを癒した。
街路には週末の夜景を楽しむ若い人たちがあふれていた。
ストリートシンガーに共感するグループもあった。
まだ三年ほど前のことであるが、上海の南京東路の交差点の一角で弾き語りするシンガーを、信号を挟んで三方から遠巻きに聴いているひとたちの姿があった。歌の内容まではわからなかったが、なにかがあれば歩行者になる人たちの集いであった。これはわたしの思い過ごしであるのかもしれないが、今夜のわかものたちはシンガーの歌に共鳴し、その場の集いを楽しんでいた。
それは『トイレの神様』を生み出す、なごやかな、自由な雰囲気であった。
中国が吹き出す風にひかれて旅を続けてきたわたしにとって、それは心地よいそよかぜに感じとれた。星のない夜空であったが、上海の夜景はわたしのこころにふかく染み込んでいった。
(2012年6月25日 記)