秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

回想後編 父ちゃん 別離

2009年09月10日 | Weblog
私が小学校二年生の年に、母が初めて倒れた。重症な高血圧だった。
父は、母の身体をいつも気にかけていた。両親が、喧嘩した光景など、一度も見たことがなかった。
父の愛情は、いつも私には、大袈裟だった。
私が、風邪をひいた時は、熱が下がるまで、布団から絶対に出してもらえなかった
そんな時は、テレビも禁止で、平熱になるまで、肩にピッタリと布団をかけられた。
夜中に、私を背中におぶって、1キロ先の村医者の玄関を叩く。父の大きな背中で、跳ねた感触は、今でも覚えている。
『愛情の温度は連鎖する』
私は娘達には、何時だって、大袈裟な親だ。

そんな、父が、始めた弱音を吐いた。
十月の半ば頃、いくつかの身体の不調を訴えた。
お腹が張る、痛い、歯茎からの出血。
町の病院にも、一人で出掛けて行った。
一向に変わらない、父の病状に、私は母に、尋ねた時があった。
「母ちゃん、父ちゃんはどこが悪いん?病院に行ったんだろ?」
「それが、先生、なんにも言わんかったらしい」
母は、ただ首を傾げていた。
暫くして、父は寝込むようになった。
十二月に入ったある夜、父が訳の解らない譫言を並べ始めた。
母は、近所の人を呼んだ。
村の日赤のマークが入った白いバンに乗せられて父は町の病院に運ばれた。
明くる日の授業中、担任が入ってきて、私に、すぐに帰る準備をするように言った。なんの事なのか、解らなくて、クラスの視線を、一斉に浴びた、そのざわめきに、私は少し照れながら、教室を出た。
校門に出ると、近所の土建業を営む、〇石のおっちゃんが車で迎えに来てくれていた。
私を乗せ、暫く走り、おっちゃんが一言だけ、ポツリと聞いた。
「…唐津のじいちゃんの住所、わかるか…」
「う…ん」
私が、そう答えると、おっちゃんは、前をずっと見たまま、
「…連絡せないかん」そう呟いた。
〇石の、おっちゃんは、温もりを持ちながら、無駄な言葉は並べずに、必要な事を黙ってこなす。いつだって『老舗』のような大人に見えた。
あの時、おっちゃんは、片道二時間近く掛かった、町への距離を、私達家族の為に、何回往復してくれただろう。今でも、おっちゃんは、私の中の、永遠の優しい老舗なんだ。

町の小さな病院に着いた。
褪せた白い壁の病室に、父は眠っていた。
親類達が、来ていた。
その日の夜、母に近くの銭湯に付き合わされた。
湯に浸かりながら、母は突然、泣き出した。
「父ちゃん、死ぬんじゃ…後一週間しかもたん、お医者さん、言よった」
掌で顔を覆うようにして、泣き崩れていた。
それでも、私は信じていた、
『父ちゃんは、死なん!絶対に死ぬわけない!』
一週間は、余りにも短かすぎた。
最期に父が言葉を搾り出すように、私に言った。余りにも、父らしかった。
『……勉強せ…えよ』私は、精一杯涙を堪えて、
『…う…ん…』と答えた。

昭和四十九年、
十二月十四日、雪の舞う朝。
引き潮、11時57分、
父は、最期に小さく口を三回あけ、冷たくなっていった。


父ちゃん、大好きだった父ちゃん。
父ちゃんに愛された、12年が、終わった。
もう、リヤカーは押せないんだね。
金魚の糞は、金魚から離されたんだ。


あれから35年、
波瀾万丈だった、
父の人生に、父の昭和に
今、娘は
心から万歳を贈ります。
『よか、人生ばい!』父ちゃんの声が、身体中に聞こえるー。


コメント (2)
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