秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 祖父の遺産

2009年09月14日 | Weblog
格子戸を開け、玄関に入る。叔父さんが、優しく、迎えてくれた。叔母さんは、私のカーディガン姿を見て、驚いた様子だった。
奥の座敷に通された。
おじいちゃんの顔を見た途端に、堰を切ったように、涙が溢れてきた。鳴咽が、込み上げてくる。

私は、父が亡くなってから、母の前では泣かない娘だった。
何かに付けて、被害妄想が強くなった母は、父さえ生きていれば…と口癖のように、呟いた。
呟いては、ただ泣く。悔やんでは泣く。
私は、父が息を止めた、冬のあの日の朝、折れた枝のように泣き崩れた、母の背中を見た時に、きっちりと自分自身に決めていた。
〈父の代わりになる〉
だから、私は泣けなかった。泣きたい時は、父のお墓の前で、泣いた。布団の中で、泣いた。

祖父の葬儀が済み、
私はその日の夜行列車に乗った。
列車の窓から、遠退いていく、唐津の町の灯を見ながら、ただ悲しくて、涙が溢れた。
人目も憚らないで、泣けた。

途中の駅から、一人旅の若い女性が、前の椅子に向かい合わせた。彼女は、黙ったまま、キャラメルの封を切り、泣きじゃくる私に、そっと、それを差し出してくれた。
キャラメルを口の中にいれ、唇を噛み締めると、また涙が溢れて落ちた。
言葉の要らない優しさの存在に、初めてであった。あの日の夜汽車の温もりは、今でも私の心のフイルムに、きっちりと、焼き付けている。

祖父の死後、
母のもとに、一枚の封書が届いた。
それは、大阪に住む、父の実の妹さんからだった。
母が一枚の用紙を、私の前に、差し出しながら、聞いた。
「これ…どうする…」「何?この紙?」
「唐津のじいちゃんの財産、一緒に請求するのに、ハンコ押してって、書いとるわ…」
母は、一度座りなおした。
「何で、財産なん?」ピンとこなかった私は、また問い直した。
「親が死んだら、残った財産、後の子供が貰えるんじゃ…、一緒に請求せんかって、書いとるわ…」

今、思えば、こんな大事な話の結論を、母はたかが二十歳の私に、決めさせた。

私はあの時、速答した。
「じいちゃんの遺したものは、じいちゃんの看病をした叔父さん、叔母さんのものだろう!なんで、じいちゃんの世話してないのに、貰えるん!いらんよ!そんなん、おかしいわ!」

今だから理解できる。母は、あの時、一緒になって請求することを、父に恥じたのではないだろうか?そして、何よりも、父の存在以外、母には何ひとつとして、価値がなかったのだ。相変わらずの貧乏暮らしだったにも関わらず、私の、一言で、母はあっさりと、祖父の遺産を放棄した。
あの時、放棄した遺産は、莫大な金額だったらしく、父が生前、私に
『人間は最後に笑うたもんが勝ちたい!』
と言っていた深い意味が、理解できた。
『ボロ買い』
と人から言われても、何一つ、怯むことなく、心に糊をピーンと貼れていたのは、資産を持つ、地主の長男としての、プライドだったのだ。
私は、父亡き後、学べた多くの事が、何よりもの父からの財産だと思っている。
その財産は、風でも吹き飛とばないし、誰にも燃やす事も、出来ない。語り継ぐ限り、永遠に消えない、不滅の遺産なのだ。

私は、それから後、再び第二の故郷に向かうー。
コメント
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