秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 格子戸の家

2009年09月12日 | Weblog
私には、もうひとつの、故郷がある。
佐賀県
唐津市。
父は、亡くなる一年前、36年ぶりに故郷の地を踏んだ。
高校卒業と同時に、長男で在りながら、家出同然に、故郷を捨てた。義理母とのぎくしゃくした関係、腹違いの弟。父は居場所がなかったのだ。
父は、膨大なみかん畑を持つ、名主の長男として産まれた。
父が消息を絶ち、数年して、祖父は日本中の役所を、一件、一件電話で尋ね捜した。
父も父で、祖谷に疎開してきた事を知らせる、手紙を数回出した。

なぜか、祖父の手元には、手紙は渡されていなかった。
皮肉にも、祖父が父を捜しだせたのは、父が亡くなる一年前だった。

父は、幼い私に、
「唐津に帰りたいか?」「必ず、唐津に帰るばい」
なんの話しなのか、最初は解らなかったが、父は自分自身に、言い聞かせるように、私に話して聞かせた。
大島という島のまわりを、一人で泳いだ事、広いみかん畑の事、義理のお母さんが実子だけを可愛がった事、唐津の、青い青い海の色。
帰りたかった、故郷と繋がった日、父は私を故郷に連れて行った。
箱入りの洒落たお土産でも、持っていけばいいのに、父の土産は、『祖谷豆腐』

『これが1番たいっ!』
そう言って、新聞紙に豆腐を何回も包んで、段ボールの箱に入れ、ビニールの紐できっちりと十文字にしばる。駅で、父の段ボール姿は、かなり、目立っていた。

朝、1番のバスで村を出て、唐津に着いたのは、夜だった。

初めて訪れた唐津。
初めての親子旅行。

今でも覚えている。
薄ら明かりの下に、格子戸があった。石畳みを少し歩くと、玄関にたどり着く。

幼い私でさえ、感じとった、気まずい雰囲気。
歓迎してくれていたのは、祖父だけだった。私はなにもかもが、ただ珍しかった。
知らなかった、いとこの存在。初めて逢った、おじいちゃんの顔。おばさんは、祭の用意で、台所と思われる場所を、忙しく動き回っていた。
その祭が、父から再三聞かされていた、
『唐津くんち』だった。
あくる日、父と私は初めて別行動を取った。私は、いとこと四人で、お祭りの屋台を歩いた。いとこの九州弁は、聞き取りにくく、私は何回も聞き返した。何かを聞き返す度に、四人で大笑いした。
父は、あの日、祖父と何処に出掛けたんだろう。

翌年の夏休み。
今度は、祖父が、我が家を訪ねてくれた。
私の夏休みに併せ、しばらく滞在してくれた。
教えてもらった訳でもないのに、
私は、祖父を呼ぶ時も、手紙を書く時も、『おじいちゃん』と呼んだ。
祖谷の祖父は、『じいやん』だったのに、
なんか、可笑しく想いだす。
私は、それから後に、父亡き後、四回、
唐津の地を踏む事となる。