秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 兄と弟

2009年09月16日 | Weblog
祖父亡き後も、縁の糸は繋がったまま、深く結び付いていった。叔父さんから数回、便りが届き、毎年、叔母さんは、お手製の「粕漬け」を送ってくれた。
数年、お互いに声の便りを届けながら、何か届く度に、父にお供えした。
そんな時は、いつもより力強く、お仏壇のリンを鳴らした。

お礼の電話をかけると、いつも真っ先に叔母さんが出る
次に必ず、叔父さんと話す。
後で、叔母さんに聞いた話によると、テレビで四国や、祖谷地方と流れるたびに、叔父さんは、画面を食い入る様に見つめながら、
「あの、近くに住んでいるのか…」
と、話していたと言う。
私も私で、テレビで『唐津』の話題が流れたり、九州ナンバーの車を見つけると、胸がワクワクしたものだった。
数年の間に、父の弟、妹も、亡くなっていた。皮肉にも、莫大な遺産を手に入れた、二人は、病気で呆気なく、この世を去った。手に入れた敷地を、手入れに出掛けても、〈後には売却〉本家の叔父さんを訪ねる事は、なかったそうだ。
今でもふと思う。叔父さんが私の事を大切にしてくれたのは、私が遺産を放棄したからではなく、叔父さんは、そんな私の中に、私の父を見たのではないだろうか。
腹違いの兄弟だとしても、他人には入る余地のない、深い愛惜の念がある。


叔父さんとの別離は、すぐ側まで、来ていた。
平成八年、十二月一日、
大雪が降った早朝、
唐津から訃報が届いた。
叔父さんが、急逝した。
事故だった。
その日は、祖谷に数年に一度降る位の大雪で、町まで出かける事も出来なかった。

私は、葬儀にでる事を、断念した。
ありきたりの、電報を打った。
余りにも突然の別れに、涙も出なかった。


「あー、もしもーし、〇〇〇~元気にしちょらしたかばい!」
その声の便りは、二度と届かなくなった。

心の奥の深い谷間で、故郷が壊れる音がした。
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