秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 (最終章) 父への贈り物

2009年09月17日 | Weblog
ひとつき以上が過ぎた。慌ただしい日常の中で、私は心のどこかで、諦めていた。叔父さんによって、繋がっていた「故郷」だったと諦めていた。そんな時、納骨を終えた叔母さんから、葬儀のお返し物が届いた。私はすぐにお礼の電話をかけた。
最愛の伴侶を失った叔母さんの声は、今まで聞いた事のない、弱々しい声だった。そして、何よりも、歳月の流れが、そこにあった。
ある日、叔母さんから祖父の十七回忌を、今年営むとの、知らせが届いた。
いつも電話を切る時に、
「家族で遊びに来なさい」と言ってくれていた。
私は私で、父の二十五回忌を控えていた。
私は、迷わずに、叔母さんに相談した。
「父の法事を、唐津で一緒にさせて頂けませんか?」
叔母さんは、ひとつ返事で、心よく承諾してくれた。

『父は再び、故郷に帰れる』
私の唯ひとつの夢が、今、叶おうとしていた。


平成十年十一月末、
十六年ぶりの再びの故郷に。
私はあの日の父のように、中学生になった娘達二人を、連れて帰る事にした。
主人は、
『ゆっくり、三人で行ってこい』
と言ってくれた。
正直、体調のすぐれない主人を遠出させる事に、一抹の不安はあった。

家を出る朝、
仏壇から、父のお位牌を下ろし、真っさらな風呂敷にそっと包んだ。
大きな、リンを鳴らして、大きな声で父に言った。
『父ちゃん!帰るよ!一緒に唐津に帰るよ!ついてきなよー』


娘達と、三人の家族旅行。

新幹線、そして博多、乗り換えて、汽車。

唐津に差し掛かると、汽車の窓から、少しずつ海が広がった。
沈みかけた、太陽の雫を浴びて、父の愛した、青い青い海が、輝いていた。私は、バックの中から、そっと父の位牌を取り出し、窓際に置いた。
娘達が、私を見て、ニンマリと笑った。


父の生家は、区画整理とともに新築され、道路も広くなり、昔とは随分様子が変わったと、叔母さんから、聞いていた。

夕方、唐津駅に着いた。タクシーを降りた。
娘達は、少し不安げだった。
私は、旅行かばんを両手に持ち、ある一軒の家の灯りに向けて、ゆっくりと歩き始めた。不思議な感覚だった。迷いはなかった。
真っ直ぐに、歩を進めた。
表札を確認した。

「駅から電話かけてくれたらよかったのに、家が、よくわかったなあー」
叔母さんは、びっくりしていた。

私達は、叔母さん達家族と、叔父さんの生前の話しを、沢山聞いた。叔父さんが、私をとても心配していたこと。話しは、尽きなかった。
時間は、瞬く間に過ぎた。
叔母さんは、二階の部屋に、布団を出してくれた。
布団が三組、枕が、みっつ。
娘達と、川の字になって、天井を見た……。「感無量」
それ以外、何の言葉も浮かばなかった。

翌日、
二十人程の、親戚が集まった。
私達を、誰もが、歓迎してくれていた。
高齢の方が、一人、父を知る唯一の、方だった。
私を見て、何度も何度も、頷いて泣いていた。私も、言葉に出来ない熱い思いに、自然に涙が頬を伝った。

今でも可笑しい想いだす。
お経が始まる前に、叔母さんが、父の位牌を私から受け取り、祭壇に置いた。
祖父のお位牌と、父のお位牌は、余りにも高さが違い過ぎた。
本家のお位牌は、立派だった。少しだけ、心の中で、父に詫びた。
晴天白日、
窓からは唐津の風、
静々と、流れる時間。
祖父と父の高さの違う、
並んだ二つの位牌を、お経が包んでいく。
時折、聞こえる九州弁が、父にはお経以上に、浸みる筈だ。

光陰矢の如し

人生という名の、頂上を目指し、そこに到達し、導かれたすべての生命に手を合わせ、永遠の風になる、そして、空に還る。
それが「生ききる」
ということ。

『人間は最後に笑うたもんが勝ちたいっ!』父ちゃん、
どうだ、笑ったでしょう!
最後には、笑えたでしょう。

『よか、人生!』
だったでしょう。
父ちゃん
大好きだったよ
父ちゃんー






コメント
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