秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

追憶 兄と妹

2009年09月15日 | Weblog
父は、亡くなる一年前、故郷と繋がる事によって、妹との再会も果たせた。 私は、幼い頃から、まるで本の読み聞かせのように、父の故郷の話を聞かされた。

『人生の並木道』
は父の十八番の一つだった。
泣くな妹よ
妹よ泣くな
泣けば幼い 二人して
故郷を捨てた
甲斐がない

時折、涙を浮かべながら、口ずさむ。
そして、話しだす。
学校から帰って、お腹が空いて、何か食べたいと思っても、義理の母親は、実子だけに食べ物を与え、父と妹には、与えてくれない。父親には、言えずに、毎日、我慢ばかりを繰り返した。
ある日、父は妹を連れ、家出を決意した。
行くあてもないまま、線路伝いに、幼い妹の手を引いて、歩いた事。
まさに人生の並木道。泣きながら、唄っても無理はなかった。

私は、父と妹の36年ぶりの再会に、また、連れて行かれた。

叔母さん、そしてその家族に、初めてあった、緊張感。
あの時の大阪は、幼い私には、ただ夢心地で、異常に続いたアスファルトが、不思議だった。
叔母さんは、大手の保険会社の主任さん、ご主人は、会社の部長職だった。
生まれて初めて見た、大阪の住宅街。
従姉妹にあたる方は、社会人で、掛け離れた大人に見えた。
「鏡台」が二階の廊下の隅に、あった。たくさんの、小物が目に映り、私は、それらを見て、ただ驚いていた。すべてが、祖谷の暮らしの中には、存在しないものだった。

あくる日、
叔母さんは父と私を
ある場所に、連れて行ってくれた。
今でも父との、大切な思い出の場所の一つになった。

『宝塚劇場』
での観劇体験。
当時の私には、理解しがたい世界だった。
父は、場の空気を読めない大人だった。
当時の私でさえ、あの高級な空気を理解できたのに、父はワンシーンが終わると、隣の席の私に、内容を説明した。普通の大きな声で、説明した。もちろん、九州弁だ。
前の席の方が、迷惑気に私たちを振り返る。
斜めから、振り返る。そして、とどめに後ろの席から、
『ちょっと、静かにして下さい!』

私は、真下をずっと向いていた。恥ずかしかった。観劇どころではなかった。
少しだけ静かになった父が、演劇のクライマックスで、感動の余り、立ち上がった!!!

父の右腕を叔母さんが、引っ張って、小声で甲高く叫んだ。
『ちょっと、お兄ちゃん!』



初めての宝塚は、散々だった。
私は、あの時、父に聞いた。
「タカラズカのどこがええん~?」
父は、劇場を振り返りながら、一言言った。
「大人になって来たらわかるばい!ここの良さは、子供にはわからん!」

別の意味を、込めて、大人になって、大変理解できました。
父ちゃん、劇場は、黙って見るものです。
競艇で、観戦した時と、同じではイケマセン!

今でも、覚えている。叔母さんの、「お兄ちゃん」と呼ぶ声。
そして、振り返る父の顔は、私も母も多分、見た事のない、顔だった。「お兄ちゃん」の顔だった。


最近、父への回想を、書き出してから、なぜか気が付けば、「人生の並木道」を口ずさんでいる。
なぜだか、涙が、勝手に零れてくる。


時空を越え、幼い兄と妹の、線路を歩くふたつの影を、想い浮かべてしまうー。





追憶 祖父の遺産

2009年09月14日 | Weblog
格子戸を開け、玄関に入る。叔父さんが、優しく、迎えてくれた。叔母さんは、私のカーディガン姿を見て、驚いた様子だった。
奥の座敷に通された。
おじいちゃんの顔を見た途端に、堰を切ったように、涙が溢れてきた。鳴咽が、込み上げてくる。

私は、父が亡くなってから、母の前では泣かない娘だった。
何かに付けて、被害妄想が強くなった母は、父さえ生きていれば…と口癖のように、呟いた。
呟いては、ただ泣く。悔やんでは泣く。
私は、父が息を止めた、冬のあの日の朝、折れた枝のように泣き崩れた、母の背中を見た時に、きっちりと自分自身に決めていた。
〈父の代わりになる〉
だから、私は泣けなかった。泣きたい時は、父のお墓の前で、泣いた。布団の中で、泣いた。

祖父の葬儀が済み、
私はその日の夜行列車に乗った。
列車の窓から、遠退いていく、唐津の町の灯を見ながら、ただ悲しくて、涙が溢れた。
人目も憚らないで、泣けた。

途中の駅から、一人旅の若い女性が、前の椅子に向かい合わせた。彼女は、黙ったまま、キャラメルの封を切り、泣きじゃくる私に、そっと、それを差し出してくれた。
キャラメルを口の中にいれ、唇を噛み締めると、また涙が溢れて落ちた。
言葉の要らない優しさの存在に、初めてであった。あの日の夜汽車の温もりは、今でも私の心のフイルムに、きっちりと、焼き付けている。

祖父の死後、
母のもとに、一枚の封書が届いた。
それは、大阪に住む、父の実の妹さんからだった。
母が一枚の用紙を、私の前に、差し出しながら、聞いた。
「これ…どうする…」「何?この紙?」
「唐津のじいちゃんの財産、一緒に請求するのに、ハンコ押してって、書いとるわ…」
母は、一度座りなおした。
「何で、財産なん?」ピンとこなかった私は、また問い直した。
「親が死んだら、残った財産、後の子供が貰えるんじゃ…、一緒に請求せんかって、書いとるわ…」

今、思えば、こんな大事な話の結論を、母はたかが二十歳の私に、決めさせた。

私はあの時、速答した。
「じいちゃんの遺したものは、じいちゃんの看病をした叔父さん、叔母さんのものだろう!なんで、じいちゃんの世話してないのに、貰えるん!いらんよ!そんなん、おかしいわ!」

今だから理解できる。母は、あの時、一緒になって請求することを、父に恥じたのではないだろうか?そして、何よりも、父の存在以外、母には何ひとつとして、価値がなかったのだ。相変わらずの貧乏暮らしだったにも関わらず、私の、一言で、母はあっさりと、祖父の遺産を放棄した。
あの時、放棄した遺産は、莫大な金額だったらしく、父が生前、私に
『人間は最後に笑うたもんが勝ちたい!』
と言っていた深い意味が、理解できた。
『ボロ買い』
と人から言われても、何一つ、怯むことなく、心に糊をピーンと貼れていたのは、資産を持つ、地主の長男としての、プライドだったのだ。
私は、父亡き後、学べた多くの事が、何よりもの父からの財産だと思っている。
その財産は、風でも吹き飛とばないし、誰にも燃やす事も、出来ない。語り継ぐ限り、永遠に消えない、不滅の遺産なのだ。

私は、それから後、再び第二の故郷に向かうー。

追憶 おじいちゃんの涙

2009年09月13日 | Weblog
《 拝啓ご無沙汰いたしました 唐津方面十七 八 九日雪ふりました 祖谷も雪がつもって居ると 思て居りました
唐津お国じまんが来て放送しました事見て居たかと思ました 其の時ねて見て居りました 店の客有りますかと思って居ります 御母様の云つけを聞くのが 子供のつとめで有ります 学校居てますか 手悪くて今だに 骨付にかよって居ります 夜 うづいてねむれません さよなら ( )》


祖父は、筆まめな人だった。
父を亡くしてから、祖父が他界するまで、八年間。度々、手紙や、みかんを送ってくれた。
最初は、母と私宛てになっていたが、晩年はすべて 私宛てだった。
身体の具合が悪くなって、床に伏せる日が多くなった。
封書は、やがてハガキに変わり、ハガキの文字は、震えていた。
さいごに必ず、さよなら 〇〇〇 と私の名を綴る。

私の返事が遅れると
『便り、おくれ』とハガキが届く。
その頃私は、高校生。初恋の真っ只中。返事が遅れても、無理もなかった。

高校三年の、秋。
唐津くんちに来るように、祖父から便りが届いた。
私は、母と叔母を連れて唐津を訪ねた。
今でも、叔母さんは、『唐津はよかったのー』
と言って、懐かしがる。

次に訪れたのは、
祖父が亡くなる半年前だっただろうか。
唐津の叔父さんから、電話がきた。
祖父の容態が悪い、私に逢いたがっているとの事だった。
母は、親類からお金を借りて、私を唐津に行かせた。

その旅は、祖父との最期の、時間になった。小柄で、足が達者だった祖父が、寝たきり状態に、なっていた。
介護疲れなのか、叔母さんは、イライラしていた。
『たまに来た位で、私の苦労はわからないだろう!』
そんな言葉を並べ、私に祖父の食事の介助を、目配せした。

祖父が、小さく小さく見えた。私は必死で、涙を、堪えた。
祖父の声も、か細く、何を伝えたかったのか、聞き取りにくかった。
ただ、祖父は、涙を流していた。目尻の皺を、涙が這うように、落ちていた。

それから半年後。私が二十歳の冬の日。祖父の訃報が届く。


当時、私の月給は一日8時間働いて、二千円。母の食堂の収入も、僅かなものだった。
成人式の通知も、欠席に〇を入れて、返信した。何万円の洋服を買う余裕など、全くないことは、私には理解出来ていた。
『出席するの、めんどくさい!』
母にはそう言って、ごまかした。

黒の礼服は持っていたが、コートを買うお金がなかった。
特別な外出着もなく、私は、黒い礼服のスカートを着て、その上からいつも着ていた、白い長めのカーディガンを着た。その恰好で、唐津に向かった。
博多のホームの風が、身体中を、吹き抜ける。足の先が、痛くなった。薄いカーディガンなど、何の役にも為らなかった。
綺麗なコート姿の、いくつもの視線が、私を通り過ぎて行った。

追憶 格子戸の家

2009年09月12日 | Weblog
私には、もうひとつの、故郷がある。
佐賀県
唐津市。
父は、亡くなる一年前、36年ぶりに故郷の地を踏んだ。
高校卒業と同時に、長男で在りながら、家出同然に、故郷を捨てた。義理母とのぎくしゃくした関係、腹違いの弟。父は居場所がなかったのだ。
父は、膨大なみかん畑を持つ、名主の長男として産まれた。
父が消息を絶ち、数年して、祖父は日本中の役所を、一件、一件電話で尋ね捜した。
父も父で、祖谷に疎開してきた事を知らせる、手紙を数回出した。

なぜか、祖父の手元には、手紙は渡されていなかった。
皮肉にも、祖父が父を捜しだせたのは、父が亡くなる一年前だった。

父は、幼い私に、
「唐津に帰りたいか?」「必ず、唐津に帰るばい」
なんの話しなのか、最初は解らなかったが、父は自分自身に、言い聞かせるように、私に話して聞かせた。
大島という島のまわりを、一人で泳いだ事、広いみかん畑の事、義理のお母さんが実子だけを可愛がった事、唐津の、青い青い海の色。
帰りたかった、故郷と繋がった日、父は私を故郷に連れて行った。
箱入りの洒落たお土産でも、持っていけばいいのに、父の土産は、『祖谷豆腐』

『これが1番たいっ!』
そう言って、新聞紙に豆腐を何回も包んで、段ボールの箱に入れ、ビニールの紐できっちりと十文字にしばる。駅で、父の段ボール姿は、かなり、目立っていた。

朝、1番のバスで村を出て、唐津に着いたのは、夜だった。

初めて訪れた唐津。
初めての親子旅行。

今でも覚えている。
薄ら明かりの下に、格子戸があった。石畳みを少し歩くと、玄関にたどり着く。

幼い私でさえ、感じとった、気まずい雰囲気。
歓迎してくれていたのは、祖父だけだった。私はなにもかもが、ただ珍しかった。
知らなかった、いとこの存在。初めて逢った、おじいちゃんの顔。おばさんは、祭の用意で、台所と思われる場所を、忙しく動き回っていた。
その祭が、父から再三聞かされていた、
『唐津くんち』だった。
あくる日、父と私は初めて別行動を取った。私は、いとこと四人で、お祭りの屋台を歩いた。いとこの九州弁は、聞き取りにくく、私は何回も聞き返した。何かを聞き返す度に、四人で大笑いした。
父は、あの日、祖父と何処に出掛けたんだろう。

翌年の夏休み。
今度は、祖父が、我が家を訪ねてくれた。
私の夏休みに併せ、しばらく滞在してくれた。
教えてもらった訳でもないのに、
私は、祖父を呼ぶ時も、手紙を書く時も、『おじいちゃん』と呼んだ。
祖谷の祖父は、『じいやん』だったのに、
なんか、可笑しく想いだす。
私は、それから後に、父亡き後、四回、
唐津の地を踏む事となる。




今日はゴンの通院日!

2009年09月11日 | Weblog
前略、初めて偶然、このブログに訪問頂けた方々。このブログは、
『東祖谷の運動会日程を周知するNPO法人』とか?
『親子の鼻の整形募金を募る会』
などでは、ありません。アシカラズ!

ここは、『山』の神聖なブログです。
美しい祖谷の山々の画像を見たい方々、または、超難しい漢字を学習したい方々、または山に登る暇も与えられず、現実に戻されそうになった時、『山男』はいかにもがき苦しむか、興味のある方々は、10月まで、お待ち下さい。私は、このブログの主に、留守番を頼まれた『祖谷の女版、松岡修〇』です!

わかりやすく話しますと、
とても美しい景色に住む、家主が、
超幸福な野暮用ができ、豪邸をひとつきだけ、留守にする事になりました。
家主は、知り合いの鼻の美しい女性に、留守番を頼みました。家主は、防犯がてら、二、三日に一回、豪邸の窓を開けてくれたら、有り難いと言いました。

が、鼻の綺麗な女子は、言いました。
『おおー、任せなさい!!!私が毎日窓を開け、訪ねてくれたお客様に、ゆっくり休んで頂きます~~』

家主は、一瞬、
『ソコマデ、シナクテモ?』
と戸惑いましたが、
豪邸が、心配だったので、了解しました。

留守番の、熱ーい、『女版、松岡修〇』はふと、思いました。
「この景色、めちゃくちゃエエじゃん~」



と言うことで、
今日はゴンの週に一度の通院日!
夕方から、往復二時間半かけて、病院通いです。一年前から、通ってます。


補助金、ほしいです…
僻地老犬通院手当…
僻地運転肩コリ手当支給……

〇主党さん、
お顔が、引き締まって、ちょっと顔色も悪く、お疲れ気味だとは思いますが、
できれば、よろしく検討して下さい。

13日は東祖谷中学校の、運動会!
ワメイさんの、息子さんが、頑張ります!
私も、頑張ります!
私も、頑張ります!



多分!

うん!

はい!

以上、車内移動中、
全くしゃべらない、
ゴンの通院報告でした。
今日も、皆様、
そこそこに、
頑張りましょうー



回想後編 父ちゃん 別離

2009年09月10日 | Weblog
私が小学校二年生の年に、母が初めて倒れた。重症な高血圧だった。
父は、母の身体をいつも気にかけていた。両親が、喧嘩した光景など、一度も見たことがなかった。
父の愛情は、いつも私には、大袈裟だった。
私が、風邪をひいた時は、熱が下がるまで、布団から絶対に出してもらえなかった
そんな時は、テレビも禁止で、平熱になるまで、肩にピッタリと布団をかけられた。
夜中に、私を背中におぶって、1キロ先の村医者の玄関を叩く。父の大きな背中で、跳ねた感触は、今でも覚えている。
『愛情の温度は連鎖する』
私は娘達には、何時だって、大袈裟な親だ。

そんな、父が、始めた弱音を吐いた。
十月の半ば頃、いくつかの身体の不調を訴えた。
お腹が張る、痛い、歯茎からの出血。
町の病院にも、一人で出掛けて行った。
一向に変わらない、父の病状に、私は母に、尋ねた時があった。
「母ちゃん、父ちゃんはどこが悪いん?病院に行ったんだろ?」
「それが、先生、なんにも言わんかったらしい」
母は、ただ首を傾げていた。
暫くして、父は寝込むようになった。
十二月に入ったある夜、父が訳の解らない譫言を並べ始めた。
母は、近所の人を呼んだ。
村の日赤のマークが入った白いバンに乗せられて父は町の病院に運ばれた。
明くる日の授業中、担任が入ってきて、私に、すぐに帰る準備をするように言った。なんの事なのか、解らなくて、クラスの視線を、一斉に浴びた、そのざわめきに、私は少し照れながら、教室を出た。
校門に出ると、近所の土建業を営む、〇石のおっちゃんが車で迎えに来てくれていた。
私を乗せ、暫く走り、おっちゃんが一言だけ、ポツリと聞いた。
「…唐津のじいちゃんの住所、わかるか…」
「う…ん」
私が、そう答えると、おっちゃんは、前をずっと見たまま、
「…連絡せないかん」そう呟いた。
〇石の、おっちゃんは、温もりを持ちながら、無駄な言葉は並べずに、必要な事を黙ってこなす。いつだって『老舗』のような大人に見えた。
あの時、おっちゃんは、片道二時間近く掛かった、町への距離を、私達家族の為に、何回往復してくれただろう。今でも、おっちゃんは、私の中の、永遠の優しい老舗なんだ。

町の小さな病院に着いた。
褪せた白い壁の病室に、父は眠っていた。
親類達が、来ていた。
その日の夜、母に近くの銭湯に付き合わされた。
湯に浸かりながら、母は突然、泣き出した。
「父ちゃん、死ぬんじゃ…後一週間しかもたん、お医者さん、言よった」
掌で顔を覆うようにして、泣き崩れていた。
それでも、私は信じていた、
『父ちゃんは、死なん!絶対に死ぬわけない!』
一週間は、余りにも短かすぎた。
最期に父が言葉を搾り出すように、私に言った。余りにも、父らしかった。
『……勉強せ…えよ』私は、精一杯涙を堪えて、
『…う…ん…』と答えた。

昭和四十九年、
十二月十四日、雪の舞う朝。
引き潮、11時57分、
父は、最期に小さく口を三回あけ、冷たくなっていった。


父ちゃん、大好きだった父ちゃん。
父ちゃんに愛された、12年が、終わった。
もう、リヤカーは押せないんだね。
金魚の糞は、金魚から離されたんだ。


あれから35年、
波瀾万丈だった、
父の人生に、父の昭和に
今、娘は
心から万歳を贈ります。
『よか、人生ばい!』父ちゃんの声が、身体中に聞こえるー。



回想前編 父ちゃん

2009年09月09日 | Weblog
私の小学校入学前、両親は古びた小さな家を、買った。祖谷川の崖っぷちに建つ、平トタン屋根。傾きかけていた、家の壁からは、どこからともなく、隙間風が、絶えず、吹き抜けていた。
ここを、購入した、理由はひとつ。場所は、村の中心地に近い。人通りも多い、その場所で、小さな食堂を開店した。
朝一番に、太陽に、手を合わせ、『パン、パン』と二回拍手。そして、頭を下げる。
それが終わると、家の前、それから道路を竹ホーキで掃く。それが、毎朝の父の日課だった。

父は九州の実家に背を向け、『九州〇〇劇団』を旗揚げし、座長として日本全国を、どさ回りしていた。母は、劇団の花形浪曲師だった。両親は、終戦と共に、劇団を解散し、母の故郷である、祖谷に疎開してきた。


私が生まれた時には、父は、錆びたリヤカー一台を、財産として、『古物商』を始めて、一家の生計を立てていた。
某タレントさんの書いた、ベストセラー本に登場する、リヤカーにヒモを垂らし、その先に磁石を付けて、道端に落ちていた、釘とか金属の切れっ端だとかを、起用に集める様子は、話題にはなっていたが、私には、珍しい光景ではなかった。
父も、同じ方法で、カネ屑を集めていた。
私は、学校が休みの日は時々、往復数十キロの山道を、父のリヤカーを押して歩いた。
私は、『金魚の糞』と父が名付けたように、絶えず父と、行動を共にした。

父の馬鹿が付く程の、大袈裟な愛情に包まれて、私は育てられた。
私の人生に於いて、必要な事は、全て父のリヤカーを引く、背中越しの声で、学んだ。

『よく学べ、よく遊べ!』中途半端は、父は絶対に許さなかった。
『便所を最初に掃除しろ、見えない場所が、一番大事!』

『人の嫌がる場所を、掃除しろ!』
『最後に笑う者になれ!』
挙げていったら、きりがない。

大柄な父、ゴツゴツした大きな手には、機械の油が染み付いていた。『正義』が好きで、『嘘』が大嫌いで、家族を、体中で、愛していた。

中学校になって、初めての運動会。
そこに、父の姿があった。弁当を引っ提げて、来てくれていた。照れ臭く、でもうれしかった。
父は父兄のでる種目に、張り切って、参加した。
『綱引き』の競技をしていた父の姿は、はっきりと覚えるいる。
後ろの方に陣取って、いつも以上に大声を張り上げながら、顔を歪ませながら、綱を引いていた。

父は、満足気だった。娘の運動会に、参加出来た事。父は家に帰ってからも、競技の話しを繰り返していた。

父の最初で最後の運動会。
父の体内で息を潜めていた、肝臓ガンは、皮肉にも、過剰に力を出しすぎた『綱引き』で、一気に暴走を始めた。

運動会が終わって、暫くして、父は身体の不調を、初めて口にした。

山々は、秋の色を静かに迎えようとしていた





回想 机の落書き

2009年09月08日 | Weblog
小学校の運動会、
私は、両親と揃って、お弁当を食べた記憶がない。
六年生の時、母親が一度だけ見に来てくれた。きっと『小学生最後の運動会』と両親が、娘に、気を遣ったんだろう。
運動会の朝は、父も母も、注文を受けた、お弁当の準備に追われていた。
小さな食堂の、古びたテーブルの上には、薄い折り箱が、並べられ、小さなアルミハクのカップ、バラン、輪ゴムが、お盆の上に、のせられていた。
『行けたら見に行く』と父が私に背中越しに声をかけたが、
『どーでもええー』
私は、いつも、そう返事をしていた。
行けたら行くと言って、来てくれた事はなかった。私のお弁当は、学校の先生の分と、一緒に届けられた。
父は、自転車で往復ニキロの山道を、とんぼ返りしていた。
小学校から、1キロしか離れていなかった食堂は、お昼になると、運動会に遊びに来た、お客さん達で、いつも、込み合っていた。

カウンターがひとつ。テーブルが、ひとつ。オンボロの狭い食堂。何か、行事があるたびに、いつも以上に、大盛況だった。


運動会の午前中の、プログラムが終わると、お昼の休憩を告げる、アナウンスが、校庭に流れる。
さっきまで、となりに座っていた、クラスメイト達は、一斉に散らばって行く。
応援に来ていた、親達が呼びにきたり、
親の座る場所に、駆け出していく子。
私も、なぜか同時に散らばった。
石段を登ると、校舎があった。
教室に向かった。お弁当を食べる場所だ。
何時だったか、教室に入ると、クラスメイトの一人が、家族で机を四つ合わせて、その上に、重箱を並べていた。
『あっ…』
私の小さな声に、その子の母親が気付いた。『あー、机ゴメンよー、この机、〇〇ちゃんのだったんじゃー』
私は、大丈夫というそぶりをして、近くにあった、机の上にお弁当を置いた。

回りにも、三組程の家族連れがいた。愉しそうに、話しながら、母親の握った箸が、重箱の上に、円を描いていた。

まっすぐに、黒板を見ながら、私はお弁当を口の中に、詰め込んだ。
すぐに教室をでて、運動場に駆け降りた。
運動場の端、テントの中、石垣のフェンスの場所も、色とりどりのインクを散らしたような、小さな集団で、埋め尽くされていた。
私は、入場門の隅っこで、その小さな集団が、少しずつクズレテいくのを、待っていた。
生徒達に、集合のアナウンスが、流れる。
午後のプログラムは、鼓笛隊の演奏だった。

甘えない
頼らない
群れない


今の私は、あの頃の等身大…

借りた机の上の、見慣れない、消せない落書きと同じように、お弁当の苦い味も、消せない愛しい想い出と、変わっていった。

卑怯という名の山村から

2009年09月07日 | Weblog
さあ、今日は菅生小学校の運動会本番です!お天気は、快晴!
運動会と言えば、なんと言っても、手作り弁当ー。
どんなに疲れていても、それはそれ!
夜明け前に、起床。
いなり寿司、OK!
から揚げ他各種揚げ物OK!
巻き寿司も、ハズセナイ!
サラダに、漬け物、トドメのデザート!
私は、お友達の子供の運動会の為に、こんなに頑張れる、『祖谷1番の素敵女子!』



…の筈でした……

ゴメンナサイ
野暮用が重なりすぎて、早い話しが、
野暮用を優先し過ぎた結果、
なーーーーんにも作らず、
ホテル〇祖谷の女将さんが、作った巻き寿司のみを持参して、
現地に着いたのは、お昼少し前ー



さあ、みんなで参加!食い逃げは禁止!
お昼ご飯を頂いたら、競技に参加!


と偉そうに臨時特別ルールを、絶叫したのも?…………わたし。


ゴメンナサイ。
スンマセン。
Aちゃん、Nちゃんの豪華手料理を、見事に完食し、管理人の妻の食後のコーヒーまで、まったりと飲み干し、おまけに、シートでごろ寝をして、


競技? 競技? 競技?

ゴメンナサイ!
みのりちゃん!
私は、のこのこと参加し?お腹がイッパイになったので、こそこそと帰って来た、
『悪質な無銭飲食者』です。
こんな女子には、ならないように、
これを、『ほら吹き』というんです。
よーく、覚えてね。

運動会、?年も前の事だけど、シッカリと覚えています。
明日から、数回シリーズにて、お話しします。
初めて偶然、このブログに訪問頂けた方々。このブログは、
『ゴキブリの生態』を研究したり、
『老犬の悩み相談室』
などでは、ありません。アシカラズ!

ここは、『山』の神聖なブログです。
美しい祖谷の山々の画像を見たい方々、または、難しい漢字の勉強をしたい方々、または山に登る時間がなく、ストレスを積み重ねた場合、人間はいかにして、文体を壊していくか、観察したい方々は、10月まで、お待ち下さい。私は、このブログの主に、中継ぎを頼まれた、『優しい食い逃げ女子』です。
年齢は、最近、数えていないので、忘れました。
あっ、そうそう、
テラオの兄さんが、今週、フォーカス徳島に、出演するそうです。オンエアの日を聞きましたが、

…スンマセン。
全く、忘れました。
たぶん、耳が、
休憩していたんでしょう。
皆さん、見てあげて下さいね。


ということで、
運動会の食後は、
やっぱりコーヒー!
ハズセナイ!

菜菜子の、
『卑怯という名の山村から』を、お届けしました。
ごちそうさま♪


ゴンの茅刈デビュー

2009年09月06日 | Weblog


ゴンに、見守られながら、本日は、
『秋の茅刈り』です。『肥えぐろ作り』です。
場所は、たびたび登場する、86才の叔母さんの、山の上の集落です。
お手伝いに、近所のお友達が、三人来て下さってました。
お友達も、高齢者予備軍、もしくは、立派な高齢者!
去年も、今年も私は参加させて頂きました。
昔の農家の方々から、受け継がれた、『生きる為の知恵』が、ビッシリと詰まった、農家の四季。
伸びた『茅』
を草刈機で、Tさんちの、おっちゃんが、刈っていきます。
茅は、直径30センチ位に、束ねていきます。この束ねる作業が、1番大変です。今日も、太陽はギラギラと照り付け、時折、風が渡る程度でした。
大量の束ねた茅を、長さを揃えながら、タワーにしていきます。
基本は、タワーの中に雨が入って、腐らないように、最初は基礎をシッカリと三束、立てます。
それから、形を整えながら、一番最後の囲む部分に、長い茅を使います。
『雨』が入らない為です。頭になる、部分は、丁度、女性のアップにした髪を、オダンゴにするように、クルッとまとめます。
回りを、キツーク縛って、一つの肥えぐろが、完成します。
一年中、利用できる、全く無害の堆肥!
凄い!脱帽です。
おばちゃん、おばあちゃんが、カマを腰に吊って、この作業を、しなやかに、繰り返すんです。
私の多くの質問に、答えながら…?



『なあーなあー、おばちゃん、コレッて、いつからしよん?』
『肥えぐろか…サア~、わたしら嫁さんにきたときから、しよったきん、昔からしよんだろうのうや~』
『なあーなあー、西〇のおばちゃん、肥えグロって、漢字でなんて書くん?』
『菜菜子さんよー、わたしみたいなアホに、読み書きのことや、聞かれん~わたしは、アホじゃけん、なんちゃあ、知らんわ~百姓しか、できんわ~』
『おばちゃんは、アホじゃないよ。凄いよ!いくら大学卒業しとっても、百姓できな、生きていけんよ。どんな、時代になるか、解らんよー、これからは!』
『そんがに言うてくれるの、菜菜子さんだけじゃわー』



『犬よ!いぬよ!一緒にきたか♪』

『ねえさんよー、その犬、ゴンって言うんじゃと!』

『ゴンか、わたし名前しらんきん、さっきから、イヌって、よんびょった!知らん顔した筈じゃのう』

『ねえさんも、このあいだから、日に日に、茅刈で、儲けよるのうやー、銭も貯まるのうやー』
『銭は貯まらんぞよ。米、買う位のことよ』『米は、そんがに食べまいがえ。一人だったら、いるまいがえ』


彼女達の話しを、背中で聞きながら、
町で暮らす老人の方々も、こんな、素敵な時間があれば、どんなにシアワセだろうって、思ったんです。
『祖谷』に生き、四季折々の農作業を繰り返し、ひとつ、ひとつ、深いシワを重ねながら、彼女達は、束ねた『時』を積んでいくんです。
『欲望』『プライド』『政権』『利益追求』なーんにも、動じない。彼女達が、嬉しいのは、茅が柔らかい時、ジャガ芋が、病気にならなかった時、そして、回りの友達の、元気な顔を見れた時。

焼け付いた背中に、
秋の風が、吹き抜けた。
『涼しーい、シアワセー』って叫んだ私。
今日も、一日、頑張った。
シアワセ?
んーー?
『皺合わせ?』




いざっ、運動会!

2009年09月05日 | Weblog
『日曜日、運動会見にきてね~』
チャキチャキの元気女子!Aちゃんからお誘いの連絡が来た。
コテージの管理人夫婦、EXILE命のワメイの妻Tこ女子!〇〇テ〇さん、テラオの兄さん、そして私。その他、モロモロ!
このブログの主も、きっと来たくてウズウズしている筈でしょう!
なんと言っても、この小学校は、『三嶺』の登山口に1番近い!
ここからは、暫く、脚本バージョンで、読者の山友達の皆様、個々の想像で、お楽しみ下さい。M・iyaさんが、来ていたと、想定しての、シナリオです。あしからず。


『なー、ア〇テ〇さん、わしな、運動会も楽しみにして来たんだけど、ちょっと行きたいところがあるから、暫く抜けさせて貰うわなあ。』
『エー、まさか一人で三嶺に登るとか?』
『そんな抜け駆けは、しませんよ。ちょっと奥祖谷のかずら橋の写真、撮ってきたいんです。』
『奥祖谷?』
『う…ん、ブログの更新も、菜菜子さんに頼りっぱなしで、悪いからなあ~』
『エー、菜菜子さん、案外愉しそうに、エッセイ書いとるデエ~』
『イヤー、なんか悪いから、わし、ちょっと写真撮って来るわ~心配ないよ。運動会、終わる頃には、帰って来るから、待っとってな』


M・iyaの背中を見送るア〇テ〇。


運動会の開式を告げるアナウンスが、川沿いの小学校に流れる。

ア〇テ〇が、運動場に向かうのを、確かめたM・iyaは、急いで自分の車に向かう。


立ち去るM・iyaの白い車。全員で参加する、ラジオ体操の音楽が、流れていた。

すでに、カメラを構える、ア〇テ〇。

すでに、汗を拭く
テラオの兄さん。

缶ビールを用意する、管理人夫婦。

アイポットでEXILEを聞く
ワメイの妻。

上品に椅子に腰掛けながら、紫外線を気にする、菜菜子。



そして、M・iyaは、
『三嶺』の登山口に立っていた。
狂喜の余り、肝心のカメラを家に忘れていることに、彼はまだ気がついていないー。



以上、空想のシナリオのコーナーでした。


早い話しが、
東祖谷の 菅生小学校の運動会が、6日に行われます。
参加自由!
昼ご飯を食べたい方々は、A子女子の手料理が、ありますから、ご心配なく!
食い逃げは、いきません!
手料理交換条件として、2、3種目は参加して下さい。

お待ちして、おります!

さいごに、今日、
『更新、大丈夫~?』と心配して下さった、Mちゃん!
ご心配、ありがとうございます~
文字で伝える事って、めちゃめちゃ、楽しいです。
写真は、写真でしか、伝わらないものがあるように、
言葉でしか、表現出来ない事、ありますよね。綺麗な文章に出会うと、胸がキューンとなって、頭に軽ーいパンチを受けたようなあの衝撃!
私はそんな素敵な文章が、書けるようになるまで、日々頑張って、能みそのトレーニングさせていただきます。『和洋折衷』なんでもチャレンジして、頑張ります。
問題は、途中で文章を『クリア』してしまって、また最初から、打ち直さなければならない時の、
『なんじゃ、コリャア』状態の喪失感!
それと、写真がない時の、『…』感。


みんなの中にある
『昭和』の時代。
文章にして、書き残せたらと、想います。


『昭和』にいけば、
父に会えます。
『昭和』にいけば、
元気だった頃の
母に会えます。
『昭和』という時代に共に育った主人と、
透明な糸で、繋がって、そして、
生きた年月。
別々に過ごして来た、二つの人生が、
意味を持って巡り逢えたのだと、信じています。
時代の流れと共に、
『愛』の形は変わったのでしょうが、
『愛』だけは、遥か昔から、永遠だと想います。
『絶対』だと想います。
運動会ネタから、
めちゃくちゃ、シリアスな展開になりました。ごめんなさいね。
Mちゃん、ありがとう。読者の皆様、ありがとう。
やっぱ、秋は
『運動会』でしょう!


あいつは飛ぶな

2009年09月04日 | Weblog
今年の初夏は『雨』の日が多かった。
悲劇は、そんな雨の夜に起きた。

お風呂に入って、まさに出ようとした瞬間、『停電』した。
真っ暗に、なった。何の明かりもない。街で暮らしている方々には、ピンとコナイでしょう。街なら、家の中が真っ暗になっても、外灯とか、ネオンがあって、少しはボンヤリと見える筈でしょう…が、場所は祖谷の、とある集落。
真っ暗!真っ暗!
ひたすら真っ暗!


バスタオルの場所は、わかっても、下着の前後が、全くわからない。
女子が付ける、〇〇ジャーの、形がツカメナイ…。ヒモの固まりに手が絡まる。
取り敢えず、タオルをマイテ、台所のブレーカーまで、行く。
二回、壁に当たった。イチイチ、ドアを閉める、几帳面なA型性格が、こんな時は、疎ましい。ブレーカーのスイッチを上げる。取り敢えず、セーフ!
一人暮らしは、大変だ。何が起こるか、わからない。

翌日、日曜日。
午後になってまた停電した。すかさず、ブレーカーを見た。
『ブレーカーは、落ちてないなあー』
『これは、停電だあー』


私は、気が長い。
自分の現状とお年寄りと病人と、男前には特に、気が長い。
四〇電〇に文句を言っても、必死で復旧作業しているんだもの!家事をしながら、待つ!





夕方を迎えた。


老犬と、散歩タイム。近所の電気屋さんに会ったので、聞いてみた。
『なあ~、今日の停電、長いなあ~』
電気屋さんは、キョトンとして、私を見た。『今日、停電やしてないよー、菜菜子さんとこだけじゃないん?』
『ヘッ?』

『ブレーカー、見たで?』

『ヘッ、多分』

老犬を引きずるように家に帰り、ブレーカーを見た。
ブレーカーは、落ちていた。
単なる私の、見間違えだったんだ。我が家だけが、停電だった……。
半日、続いた停電は、ブレーカーをオンにして、解決した。
電気屋さんが、
来てくれた。

『イケタデ?また、調べとかな、いかんなあ~今の時期の停電は、冷蔵庫の中の物、腐るけんなあ~、ヨワッタだろう!腐っただろう?』

『ヘッ、まあ、ま・あ・……』



すぐには言えなかった。
まさか、女子の冷蔵庫に
マーガリンと、
マヨネーズと
アイスコーヒーと
ナスビ
しか入っていない事を。
結局、漏電が原因だった。犯人は、分解、組み立て、改造大好きだった、夫だった。文句を言うには、距離が遠い?




本日、時刻は23時。
祖谷川の流れる音。
無音の部屋。

壁に、張り付いている黒い固まりを発見!
巨大ゴキブリが、深呼吸している。思わず言った小さな独り言が、夜の静寂に、虚しく溶けていった。

『…あいつは…飛ぶな…』

バックパッカー

2009年09月03日 | Weblog
私が小学生の頃だった。
祖谷の道は、まだ舗装などされてなく、土がむきだしのガタガタの狭い道だった。家の前を、一人の外国人が時々歩いていた。
偶然に、初めて会ってしまった時の事、今でも覚えている。
自分の中で『有り得ない』ことを、現実にした時、余り気持ちのいいものではなく、私は咄嗟に、家の中に逃げた。
なぜか、恐ろしかった。戦争云々とかそんな事は、しるよしもなく、ただ コワカッタ。
〔怖いこわいもの見たさ〕という気持ちは、あんな時なんだ。
私は、また家の外にでて、その外国人の背中が見えなくなるまで、ボーと立っていた。
「釣井に外人がおる」
聞いた事はあったけど、見るまでは、ピンとこなかった。


あれから、30数年、
その外国人が、かの有名なア〇ッ〇ス・カー氏!
築300年の茅葺き屋根、古民家ちいおりのオーナー!
年間、様々な国の方々が、遥か祖谷の地を訪れる。
祖谷地方、現代では外国人は、アタリマエの光景になった。


そのアタリマエの外国人が歩いていた。


その日、風のない二週間前の正午。快晴。
『暑かった』
真上に上がった太陽は、ストレートに路面に照り付ける。
日陰のない、アスファルトの二車線の道の端を、東祖谷の方向に、一人の外国人の男性が、超重たそうなリュックを背負って、頭に白いタオルを巻いて、黙々と歩いていた。
私はお昼休み!野暮用を兼ねて、西から東に向けて、とにかく急いでいた。軽トラックの中は、蒸し風呂のように、いや、それ以上に暑かった。
一直線!猛ダッシュ!歩く外国人!
通り過ぎた私!


左目で、チラッと見た。んー
『若い男前!』


とりあえず、通り過ぎたーー。

『あれはちいおり行き?』
『ここから歩いたら何時間かかる?』
『ヤバイだろう!』
『熱射病になるし~』
想像だけで、頭がぐちゃぐちゃになった。
気がついたら、車を引き返していた。


前略、私は、英語が話せません。全く、話せません。


横に止まった私に、彼は一瞬、戸惑った。
私は、とりあえず、イチカバチカ、話しかけた。スマイル全開で、話しかけた。

『ち・い・お・り?』
彼の表情は、一瞬で明るくなったー
『アッ、フー』
私にはそう聞こえた。私は、軽トラックの荷台を指さしながら、言った。
『ボランティア!ちいおり♪』
彼は、リュックを荷台に乗せた。顔がほころんでいた。


このパターンで、何回外国人を、乗せてきたんだ。わたし……



片道20分、
長かった。
運転しながら、時々、スマイルだけを贈りながら、無言でハンドルを握りしめた。
『どこから来たんだ?』愛想がわりに、聞いてみた。スマイル全開キープ!



『ア・メ・リ・カ?』


彼が微笑みながら、答える。



『フランス』



一瞬、私のスマイル停止!

『英語がわからんのに、フランス語がわかるか~』
『どーしよう?挨拶位はやっとかないと…』
頭の中は、男前アドレナリンで侵され、
単語もなんにもでてこない。メークの剥がれも気になる
くちをついた言葉が、スマイル超全開の




『ボンジュール!』

彼は、笑っていた。

どうでもよかった。早く、ちいおりに送り届けなければ、
この空気は、余りにもオカシイ?
大体、彼の目的地が、ちいおりでなかったかも、知れない。
一瞬、顔が明るくなっただけで、私が勝手に解釈しただけなんだ。『拉致監禁』にも近いこの流れ。

ちいおりに着いた。
先に降りて、ちいおりの管理人がいることを確かめた。
彼は、何か言いながら、私に手を振る。
私は、手を振り返しながら、猛ダッシュで、坂道をかけ上がった。振りかえらなかった。
以前、竹やぶの中に大量のお金を捨てて、走り去った者の、気持ちがよくわかった気がした
『あとはシラナーイ』




今日、
若い外国人の女の子が、バス停に立っていた。


私のアドレナリンは…、全く反応しなかった…。私は、全くの無表情で、通り過ぎた。

リュックを背負って、お金をかけずに、一人で旅をする外国人の事を
『バックパッカー』
と呼ぶ。
教えてくれたのは、
重いリュックを捨てて、一人で人生を旅する『テラオの兄』さんだった。



秋カラス

2009年09月02日 | Weblog
九月一日、今日は祖谷の風習の一つ、
『燈籠あげ』
八月の一日から新仏さまのお位牌の側に飾っていた、燈籠を片付ける日。集落ごとに少しだけ違っていて、昨日片付けたお家もあった。今は一年、または二年飾った燈籠を、お墓の側で燃やしたり、川で燃やしたりしているが、昔は川に流していたらしい。人口の減少と共に、やがては、数々の美しい風習も消滅してしまうんだろう。『白黒写真』のような昭和初期の祖谷の姿が、少しずつ色を変えていく。


私は学生時代から、病弱の母の代理でよくお葬式、お悔やみに行かされた。
父を亡くしてからの母は、外出を極力嫌った。
「〇〇集落の、〇〇さんの家に行って、お悔やみ言うて…仏さん拝んで来て」
母は、そう言いながら、黒のしの袋を私に渡す。
私は開口一番、決まって最初に聞く。
『〇〇の家ってどこ?仏さんって、誰?誰が死んどん?』
母は、短く一言、行けばわかるからと言うだけだった。中学を卒業した頃だったか、初めてお通夜に行かされた時、無駄だと判っていながら、母に必死になって断った時があった。挨拶の仕方も解らなかった。
「…みんなのするように、真似したらわかる…。後ろにおって、前に座った人が言うように、真似して挨拶したらええわ」
母は、物静かにただそう言うだけだった。今になって感じるが、きっと、母は煩わしく思う事から逃げていたんだ。
私は、集落の大人に交ざって、人生最初のお悔やみに行った。
一種異様な風景だった。話した記憶さえない、死んだ人。そばを囲む、家族か親戚?線香の湿った臭い。前に座った近所のおばさんの肩ごしに、見え隠れした、初めての異様な光景。
お悔やみの終わった人から、自然に席が入れ代わる。黙ったまま、入れ代わる。
前に座る、近所のおばさんにしっかりとくっついて、私は無言の移動を真似していた。
さあー、問題はこれからだ。
しっかりと聞いて、真似をして、お悔やみを言わなければ、帰れない。
お辞儀の仕方?何回なんだ?誰と誰に、お悔やみを言うの?
頭の中は、灰色に近い白!私は、神経を集中しながら、前のおばちゃんの〔口元〕を見た。聞いた!人生初の、お悔やみの言葉!祖谷地方のお悔やみの言葉。小声で連ねる、お悔やみの言葉




「まあ…、こんばんは…今日はこちらの……………………がようなかったんじゃって………」


………は、お辞儀をしていたあいだで、耳に聞こえたのは、それだけだった。
まるで、クチパクそのもの。

いざっ、私の番!



見事に



言えなかった。
最初のこんばんは までは言えたのだけど、あとが全く全く、言えなかった。むかーし、むかーし、流行った『水のみ鳥』コップの水を吸ってお辞儀だけを繰り返す、あの鳥の置物のように、
ひたすら、お辞儀だけを繰り返した。
しかも、達の悪い事に、家族の方々の、目を見ながらのお辞儀!首の関節だけが、前後していた。



あれから30年ーー
今ではすっかり上手になった、塩加減ならぬ、『お辞儀加減』
『声加減』

加減を知らずに鳴いている、秋のカラスの鳴き声が、何故か祖谷弁に聞こえながら、祖谷の山々に、今日もこだましていた。

老犬柴犬依存症候群

2009年09月01日 | Weblog

開票速報でテレビがお祭り騒ぎの夜、長女が一晩帰省した。
『祖谷』に帰ると落ち着くと言う。
私への野暮用を兼ねての帰省。部屋が少しだけ、賑やかになる。
普段なら、テレビを消せば、我が家はかなり、無音になる。
祖谷川の流れる音、洗濯機の脱水の、壊れかけのベルトのキシム音。以前に、このベルトの音が、私には何故か、鹿の鳴き声に聞こえて、『ずいぶん鹿も、道路に下りてきたんだなあー』
と夜中にひとりで感心したことがあった。
忘れてならないのは、もう一つの鳴き声!泣き声?
17才になる、愛犬柴犬『ゴン』の夜中の無駄吠え!
街頭インタビューで、「あなたの悩みありますか?」
なーんて聞かれたら、私は迷わずに即答します。
『ゴン』の無駄吠え


最近、調子が悪くなって、彼が入院した。
もう駄目かもしれない…今度こそ、駄目かもしれない。
動物病院の狭いゲージの中で、どんなに不安だろう。ゴンを預けた一週間。涙という物質は、まだまだ枯れてはいなかった。
散歩に連れていく時間になると、一生懸命気を紛らわせて、ひたすら雑用に勤しんだ。
もう、使えないかもしれないけど、神様、お願いします。もう一度、あいつと、いつもの道を、散歩させて下さい!おまじないを込めて、必死になって、犬小屋を掃除した。
食欲不振!嘔吐!脱力感!
あっ、この症状はゴンではありません。飼い主の私なのでした。悪しからず。



憔悴しきった、一週間が終わった。



ゴンは、一週間後、




復活しました。
私も復活できました。


娘と夕方、
いつもの散歩道を、歩いた。
私のゴンへの対応は、更にビップになった。夕方は、ちょうど、仕事帰りの方々と、すれ違う。山の一本道。車が通るたび、ゴンをかばいながら、一時停止する。
今日は数人の『おっちゃん』に遭った。

おっちゃんΑ
エンジンを停止させて話し掛ける。
『おー、この犬は、前に飼いよった、犬か~、なんと、ひどいのお、まだ生きとるんかあ~』

おっちゃんB
軽く会釈して、笑って一言。『犬の散歩で?』
「猫に見えるかー」と心で叫び、私はかわいらしく、『ハーイ』と答える。自分で自分に鳥肌が立つ。


おっちゃんC
車のクラクションをならして、手を振り通り過ぎる。

娘が一言言った。
『町では考えられん、道路で車がとまって、話しかけられるの』
娘よ、これは祖谷の当たり前!

最後に前方から、近所のおっちゃん!
酒を飲んでいてもいなくても、足元がオボツカナイ?

おっちゃんの後ろから、車が一台こちらに向かって走って来るのが見えた。
私と娘は、ゴンのリードをしっかり持って、左端に寄った。
おっちゃんは、ゆっくりとナゼカ道の真ん中に、寄りながら、私に言った。


『〇〇さんよー、おらが通るけんて、そんがによけてくれんでも、エエぞよー』
超ハイテンション!

『おっちゃん、後ろ、車きよるよ!避けな、危ないよー』

おっちゃんは、慌てて、後ろを振り向きながら、道の端っこによけた。
『車か車か~、そうかそうかぁー』

ほふく前進にも見える?ゴンの歩き方。
ヘルペス、心臓病。耳も眼も悪くなって、めちゃくちゃ男前でなくなったけど、
一日でも長く、この道、散歩しょう。
あなたがいなくなったら、私は洗濯機のベルトの音だけが、共友者になるんだ。
最後に一句
『祖谷山にうおーと響くゴンの復活』

復活バンザイ!