九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

熊野別当行範(6)佐野鈴木氏と佐野庄

2017-09-01 | 熊野氏
鳥居重氏=熊野別当行範である。(ではないかもしれないことが後にわかる。9月5日)
そして、この人は長範の息であるのに、一人だけ本名に「重」が付いている。
この「重」が気になるので、可能性を探ってみた。

これは藤白鈴木に代々「重」が付いていることと無関係ではない…ような気がする。
特に、年代的には「重邦」弟か息か甥か。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E6%B0%B8


重邦の経歴を見ると、源為義に属しており、刑部左衛門尉であったという。弟は右兵衛少尉で、保元の乱にも参加…行範(重氏)が41歳の頃だ。
弟だと、年齢が離れすぎの感があるため、息子とし、
重倫・季重・重善・重定を見てみると、重倫は1159年に戦死。重善は義経と甥たちを追いかけて三河国矢作で土着の人である。
季重と重定はよくわからない。

重定=重行ということが、web情報に出ていたので、ご紹介したい。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=_ixkb-YePJIJ&p=%E9%87%8D%E5%AE%9A%E3%81%AF%E5%88%9D%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E9%87%8D%E8%A1%8C%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F&u=akitsuri.exblog.jp%2F2401980%2F


季重は重が後ろに来ていることもあり、養子に出されたのかもしれない。
季重が後の行範で、重氏になることはないのだろうか?(9月5日 季重が行範か?)

なぜなら、この季重は【佐野鈴木の祖】だそうで、佐野庄といえば、

紀伊
【郡名】
牟婁
【荘園名】
佐野庄
【フリガナ】
サノ

【参考市町村】
新宮市
【市町村コード】
30207
【明治村字名】
佐野・宇久井・高津気・木川・三輪崎

【初見年和暦】
貞応元年
【初見年西暦】
1222
【出典】
東鑑
【遺文番号】

【記録類】
『東鑑』貞応元,4,27
【関係文献】

【地名辞典】
 角川地名=佐野川流域、熊野灘に面す=新宮市佐野、三輪崎付近か=貞応1地頭職、源為義女鳥居禅尼(熊野別当行範妻)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%99%BD%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B0%8F

・・・と、行範の妻である「鳥居禅尼」の所領になっているのである。

東京大学史料編纂所DBによると、

貞応1年4月27日(12220040270) 1条
【綱文】
幕府、鳥居禅尼の所領紀伊佐野荘地頭職を禅尼一期の後、その子法橋長詮に相伝せしむ、
【区分】
大日本史料
【人名】
鳥居禅尼,長詮,鳥居禅尼子
【官職】
地頭職,佐野荘地頭職,法橋
【地名】
紀伊,佐野荘,佐野
【事項】
幕府,鳥居禅尼所領,禅尼一期,相伝


私にとっては「アヤシイ!」という感じがするのである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野別当行範(5)

2017-09-01 | 熊野氏
新しい熊野別当の系図を見つけたので、ご紹介したい。ページの一番下に載っている。
http://www.nextftp.com/well/roots/new_page_6.htm

この系図には、東京大学史料編纂所DBで見つけ、気になっていた長範の息たちである盛宗・盛勝・覚盛・盛意・盛範・範智が載っている。
とても嬉しい!が、ちょっと違っているのだ。比べてみて欲しい。



行範の弟が盛宗となっている上のページと長範の息の本名のどれかが「行範」であろうと思われるDB。

そして、「中世寺社と荘園制」の中の一文「行忠をのぞく・・・」の部分がとても気になる。
他の六人は頼朝と従兄弟関係とある。


行忠は後に壬生鳥居家となり、範誉は「長田氏」「金剛氏」「小和田氏」「河顔氏」となっていく。
行範の弟、範智から「富田氏」「吉田氏」「中岩氏」がでている。

まずこの行忠と範誉と範智を中心に探してみたいと思う。
この辺りが、熊野別当が近江国とダイレクトに関係ができるポイントなのではないだろうか?(為義のこと以外で)

そして、日本の苗字7000傑【熊野別当氏】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02012a.htm#002

ここに、重氏十六代孫ではあるが、宇多源氏佐々木氏族「平井氏」と「鳥居氏」と「菅沼氏」が同じ一族になっていくさまが系図にあるではないか!

きっとこの時だけではなく、以前から近い関係にあったのだと思う。「平井」「熊野」「佐々木」が系図に並んでいたことがあるのではないだろうか?

草津の熊野神社のweb情報では「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によれば建保6年(1218年)佐々木信綱が紀伊熊野権現を勧請したとされ、のち応仁の兵乱により社殿焼亡し、神領も掠められ荒廃したが、天正年中、平井加賀守源基綱が社殿を再建したと伝えられる。」とある。

その平井氏は、行範の末裔なのかもしれない。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a1.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a2.htm
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01002.htm

そして、奇妙な気もするのだ。範智がその名前で載っているのに、東京大学のDBの系図には行範の名前が載っていない。しかも重氏が本名だとすると…長範の息かもしれないが、「佐々木氏」に関係するか、藤原氏に関係するか…なのではないだろうか?平重盛からの「重」か? 藤白鈴木の「重」が、怪しいか。

本当の「熊野別当」ではなく、、という可能性もあるのではないだろうか?




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近江国から伊勢路・熊野古道へ

2017-08-31 | 熊野氏

近江国草津 熊野神社付近から地図上で「熊野詣」をしてみた。

近江国から伊勢路を通り熊野へ!





http://www.kodo.pref.mie.lg.jp/#course

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野別当行範(4) 祖父長快と藤原実方周辺・藤白鈴木氏周辺

2017-08-26 | 熊野氏
長快が藤原実方の息とし、そこから藤原氏(北家小一条流)の周辺を探ってみたい。

wikipediaによると
藤原実方の父は定時であるが、早世の為叔父の藤原 済時(なりとき)の養子となったそうだ。
定時の父親は藤原師尹で、母親が藤原定方女となる。

藤原定方の両親とは、近江国雨森氏の祖といわれている藤原高藤と宮道弥益女の列子である。

定時の妻が【源雅信女】となる。

そして、実方と同じ母の妹が鈴木重実室となるのである。実方が重氏息である重豊の女を妻とすることになる。そして長快が生まれる。

反対意見もある。
「熊野別当家は熊野別当職を重代職とすることの正統性を示すため、熊野別当家を貴種に連なる家系であると主張する「熊野別当代々次第」なる系譜図を作成した。しかし、そうした主張は同時代には受け入れられたわけではなかった(宮家準『熊野修験』〈吉川弘文館(日本歴史叢書)、1992 ISBN 4642066497〉、pp.18-19)。」


鈴木重実と実方の妹との間に「重武」が生まれる。

重武の息が「重康」さらに、重康の曾孫に「重邦」「重次」がいる。
重邦の息が、鈴木 重倫( しげのり/-しげつね)で、その息が「鈴木重家」「亀井重清(佐々木六郎重清)」となるのである。

wikipediaから其の周辺の事情をコピーさせてもらうと、
「鈴木重善」
兄の鈴木重倫が平治の乱で戦死するとその子である鈴木重家らを託された。源義経への志が深く、源平合戦(治承・寿永の乱)では自らが病持ちのため甥の重家、重清を義経に従わせ、源氏の勝利に貢献した。源義経が源頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経に従っていた鈴木重家、亀井重清の後を追い、叔父の鈴木重善も文治5年(1189年)に奥州に向かった。しかし三河国の矢作まで来たとき足を痛め、数日逗留している間に義経をはじめ重家・重清も討死にしたと聞き、奥州行きをあきらめこの地に土着したという。


まさに、この場所が鳥居氏の系図にある【矢作庄】なのではないだろうか?
つまり、長快の孫である鳥居となった熊野別当行範、そして、行範の系が遡ると鈴木重豊女と藤原実方となるために、この矢作庄が伝わったのではないだろうか?

長快(鈴木重豊女・藤原実方の息)~長範~行範(・熊野別当・鳥居法眼・重氏・道観ヵ)~行忠~真野・間宮・渡里(渡)矢作庄へ移住

近江国伊香郡に入って来たのも、藤原高藤が祖であった「雨森氏」がいたからかもしれない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘れないようにメモ

2017-08-26 | 熊野氏
メモ


昨年もらっていた佐々木哲氏のメルマガにあった

『沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、行実の長子浅小井盛実の子孫から浅小井・井・平井・堀・一井・山上・真野・井上・奥島・山田・馬場の諸氏が出ており、水運に関係していたことがわかり、とくに一井・真野は和珥氏族を継承したものだろう。

また三郎大夫行実の末弟五郎大夫行範も真野氏を名乗り、その孫に新村井重定(小太郎)がいる。

…省略…比牟礼八幡宮神主に補任された源重定と同一人物であろう。』

今回の熊野・藤白鈴木氏と佐々木氏の関係から、急に自分にとっても納得がいくようになってきた。

但し、私が見ている系図とは違う。私の見ているのは、【古代氏族系譜集成】で、大きな流れが見えるもので、私にはわかりやすく図書館でコピーもできたためこれを使っている。
古代氏族系譜集成の佐々木氏系図では、
豊浦冠者井上三郎行実から「井・浅小井・伊庭・井上・山田」が出て、
愛智四郎大夫(中屋冠者)から「愛智・平井・長江・山崎・河袋・平流」(江州中原系の名前が多い)
五郎大夫行範から「古川・真野・新村・丸田・深尾・西尾・間宮」がでている。


きっとこの真野・間宮氏が熊野別当行範(鳥居重氏)の子孫であり、遠くは藤原実方の子孫であり、藤白鈴木の子孫であり、源雅信の子孫となるのではないだろうか。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野別当行範(3) 號道観  父長範 祖父長快

2017-08-26 | 熊野氏
熊野別当行範の系図を見ていると、様々な系図があり、混乱してくる。
行範の子が湛増であり…など、また、今日は「號道観」というものも見つかった。

熊野別当第十九代行範ということは間違いがないのでは、と思い、そこから遡り、父長範・祖父長快を調べてみた。

まず、祖父長快


これによると「行範」の名前が「盛範」となるのだろうか?(五男?)弟の範智は変わらない。









上記の「尊卑分脈」を見てほしい。實方の母親は、なんと左大臣雅信の女(娘)なのである。佐々木氏の大事な人である。
源雅信の息は【源 扶義】で、その息が、【成頼、経頼】で、大きく近江国と関係する。
そして、藤白鈴木氏にもつながっていくのである!
ココで今まで調べてきたことにつながるが、以前の記事には間違いもあるので、改めてこれから書こうと思う。



蒲生郡佐々貴郷に住んでいたという「成頼」、そして近江守であったこともある「経頼」
行範の祖父が實方の息であったことが、何等か作用して行範が近江国にやって来たと思って、もっと調べてみよう!
ちょっと年代が合わないような気もする。。。?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%99%BD%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B0%8F


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一人の行範 1300年代

2017-08-25 | 熊野氏

間宮氏となる以前、佐々木行範=鳥居行範=鳥居重氏である…というのは、荒唐無稽なことだろうか?

行範も息子の行遍のように「熊野新宮の社僧・御師としてその家業に従いつつ」だったかもしれず、佐々木氏の中にいたかどうか、だんだん自信がなくなってきた。

しかし、鳥居禅尼や、そのころの為義の郎党が佐々木氏の中にいたことを考えると、佐々木秀義のように佐々木氏の中に入り込んでいたかもしれない・・と思ってしまうのである。

どうかなぁ。。。

さて、
もう一人の行範 1300年代だが、熊野より近江国飯道寺に来て熊野修験道を広めた人だそうである。
その飯道寺に僧としていた「九里」がいる。年代もちょうど1300年代である。【乗如】である。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野別当行範(2) 

2017-08-24 | 熊野氏
熊野氏に関して符合する所を書いてみようと思う。

姓氏家系大辞典より(ポイントをメモ)

出雲国意宇郡に熊野の地ありて、熊野大社鎮座す。
丹後に熊野郡あり。
丹後国司解「久萬乃」
近江伊香郡に熊野南庄北庄、また当国、及び越中に熊野神社有。
太古の熊野家 天祖の御子に熊野久須毘命あり。
熊野国造 国造家は物部氏の族
熊野連 子孫を和田氏という。
本宮社家 楠・長田・竹内等
新宮社家 宇井・鈴木・榎本
長快・新宮に住して、三山の政務を司る。その長子を長範という。長範の子を行範といい、新宮法眼と称す。
その裔・世々新宮の住して、別当に補任せしを以って新宮別当という。

また、長快の四男を湛快という。湛快の子を湛増という。初めて田辺荘に住す。
その裔・世々田辺に住して別当に補任せしを以って田辺別当という。

衆徒 永田・石垣・長田
神官 秦地・宇井・鵜殿鳥居
社僧 横山・鈴木・楠木・榎本・宇井・石垣・神倉・等

那智社家 潮崎・汐崎・米良(熊野別当)・鹽崎(平姓)・橋爪(源・新宮十郎行家後)・西 等
熊野別当は長快初めての別当に補せられ…云々



これらに加え、江州中原氏との関係! 
しかも伊香郡の北熊野・南熊野庄は、まさに九里氏の祖とダイレクトにつながっている系が「伊香大夫」などで繋がってきた場所である。
江州中原氏は天慶二年(938年)より伊香にいたのである。




もう一つ、行範の息(六男)行遍wikipediaより
行遍は若年の頃、熊野新宮の社僧・御師としてその家業に従いつつ、熊野で修行していた紀伊出身の有名歌人西行法師(1118年-1190年)から歌道を学んだ。その時期は1160年代後半から1170年代前半にかけての時期と推定される。

元久元年(1204年)、熊野行遍法橋は、『新古今和歌集』の撰者の1人である藤原定家の九条宿所を訪ね、西行のことなどを懐かしく語り合い(『明月記』元久元年6月15日条)、定家に自らの歌をゆだねた。その結果、『新古今和歌集』に「法橋行遍」という名前で上記の4首が入撰したと推定される。

元久2年(1205年)、行遍は、実兄の23代熊野別当範命(1148年-1208年)の推挙により、法眼に補任された(『明月記』元久2年1月1日条)。
行遍の死亡時期は、鎌倉時代初期の1210年頃に比定される。享年60前後か。僧侶としての極位は法眼。行遍は、後に紀伊の新宮や有田の宮崎水軍の統率者となった宮崎氏の祖とされている。

以前調べた「宮崎氏」ともココで、つながったのである。




コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野別当行範(1) 

2017-08-22 | 熊野氏
熊野別当行範が熊野別当であったのは約一年である。治山一年とあり、晩年の一年に本宮?にいたのみ、であることがわかる。
1113年に生まれ1172年に熊野別当となり、1173年に亡くなっている。

紀伊続風土記(現代語訳)には、次のように書いてあるそうである。
第19別当 行範
承安2年7月官符。長範の一男。同3年9月28日、59歳で入滅。後白河院の御時に法印(眼?)に叙す。男子8人、女子6人。治山1年。

人生59年の内の一年。その一年のほかはどこで暮らしていたのか?それが鳥居なのか?それが新宮なのか?京都なのか?近江国なのか?

もしも佐々木氏と関わっているとすると、秀義は1112年生まれ 佐々木吉田六郎巌秀は1162年生まれである。つまり熊野別当行範が巌秀である可能性は無くなる。
しかし、秀義と同時代であることがわかる。

また、経方の本当の息ではなく、養子か娘聟ではないだろうか?(為義の娘聟であると同時に。)
佐々木経方は1054年に生まれ1115年に没する。

また行実は以下のことから1131年には活動期であったことがわかる。(行範が18歳の頃)


1131年 天承元年3月紀州熊野の神を勧請す。神宮雑誌に佐々木御厨は天承元年10月建立、元不輪庄領也と見へ、堀河天皇の皇女仁子女王が外宮豊受大神に御寄附ありしを記す…
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦3319 新宮神社 (シングウ)である。

1142年「源行真申詞記」(行範29歳)
その記述からもわかるように、佐々木氏のなかから為義の配下に入ったものが多々存在していたことも併せて考えても、その中に行範がいても全く不自然ではない。
一番詳しいのが佐々木哲氏のブログである。http://blog.sasakitoru.com/200505/article_13.html

熊野別当行範は、為義の娘婿である。佐々木氏の中にいたと仮定して、進めてみようと思う。

その後保元の乱に突入していく。
熊野では、
行範の妻である鳥居禅尼(たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称した行家。(初名義盛)
行家は、平治元年(1159年)の平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。
戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に潜伏する。

治承4年(1180年)、摂津源氏の源頼政に召し出され、山伏に扮して以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達した。
八条院の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。なお『覚一本平家物語』によると、行家の動きは熊野別当湛増に気付かれて平家方に密告され、以仁王の挙兵が露見する原因になったという。

行範は、為義の娘婿であり、さらに経方の娘婿であった、とし、その当時は熊野別当ではなかったため「鳥居氏」と呼ばれていたのかもしれない。
なぜなら、【鳥居氏】のwikipediaに「出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。」とあるからだ。

そして、行範は乾氏の祖ともいわれるが、私が図書館で見た「古代氏族系譜集成」によると、古川氏・真野氏(新村・丸田氏祖)・船木氏(間宮氏祖)佐々木氏(深尾・西尾氏祖)
となっていた。どれが正しいかはわからないが、真野氏・船木氏(間宮氏)の線では納得がいく。

なぜならば、前出の三河国矢作庄に(岡崎 矢作川周辺)【真宮神社】(シングウ)という神社があり、(縄文から)鎌倉時代の遺跡が付近にあり、さらに上佐々木町・下佐々木町がある。
それに加え、鳥居伊賀入道の話や、渡忠秋の話を読むと、近江国の佐々木氏の中に【鳥居行範(重氏)】が紛れ込んでいたように思えるのだ。




この「真宮」というのは、佐々木哲氏のメルマガの最新号からヒントを得た。


この、近江国佐々木氏と熊野権現神職と、平氏(清盛から平氏を賜わる)、また為義の娘聟となり源氏に関わってしまう「鳥居行範」。(上司は後白河天皇であり、甥は源行家)

間違いかもしれないけれど、さらにいろいろと符合することがあるので、調べていると面白い!





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする