九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

愛甲庄 藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任

2017-09-26 | 熊野氏

相模
【郡名】
愛甲
【荘園名】
愛甲庄
【フリガナ】
アイコウ

厚木市
【市町村コード】
142123
【明治村字名】
愛甲・船子
【史料村郷名】
船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】
熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】
カ6207
【記録類】

【関係文献】

【地名辞典】
 平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】
 『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書

~~~*~~~

愛甲庄の記載の中に「得田文書」がある。
得田氏…紀州の湯浅党にも得田があり、大中臣氏の経久の母親の姓でもあり、石川県七尾の近くの徳田(元は得田)にもみられる。そして、この愛甲庄。

webで調べてみると、得田氏は「斎藤氏の一族である。治承5年(1181)源義仲は北陸道を勢力下に置く中で、藤原章通(のりみち)(得田章通)(を得田保、大町保(現羽咋市大町)、甘田保(現羽咋市甘田)、神代社(かくみしゃ)(現志賀町神代)の地頭職に補任した。章通は得田氏の祖で治承・寿永の乱でいち早く反平氏陣営に与した。」とある。

湯浅党の方の徳田氏は平氏よりなので、別系なのかもしれない。(のちには頼朝に降伏している)

この辺り、網野善彦氏の本に出ているらしい。借りて読もうと思う。

得田・富来・中郡・那珂 皆「経久」と関連している。

この「経久」。どうかなぁ・・・九里太郎経久と別人かなぁ。とても気になる存在であり、研究課題!である。

~~~*~~~

熊野関係は、はじめは藤原北家と関係が深く、後に西園寺家が檀那として結びついている。

そして、(湯浅)宗永女が藤白鈴木重邦に嫁いでもいる。また、宗永の父は「藤原師重」と言われている。この人は、紀伊権守だそうである。

つまり重邦の息である「重倫、季重、重善、重定」は、湯浅氏と鈴木氏の間である。

wikipediaによると「「湯浅之住人藤原宗永」が、康和元年(1099年)頃にいたことが『粉河寺縁起』にみえる。長男の湯浅宗重は鎌倉幕府成立後、湯浅庄などを安堵され鎌倉御家人に列した。娘は同じ紀伊国内の鈴木重邦の妻となった。」とある。藤原秀郷流。

~~~*~~~

頼朝の乳母であった経俊の母

山内首藤 経俊(やまうちすどう つねとし)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼。相模国鎌倉郡山内荘を領した。

山内首藤氏は代々河内源氏の家人であり、祖である首藤資通は源為義(頼朝の祖父)の乳母父を務めた。山内尼は為義の孫頼朝の乳母を務める。






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畔蒜庄 その2.

2017-09-22 | 熊野氏

昨年、畔蒜庄のことを書いていたが、付属の情報として追記しておきたい。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%95%94%E8%92%9C

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02012a.htm

この畔蒜庄はwikipediaの「湛増」にも記載があった。

元暦2年(1185年)、源義経の「引汲」によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は、200余艘(一説では300艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢2000人(一説では3000人ともいう)を率いて平氏と戦い、当初から源氏方として壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した(『覚一本平家物語』、『延慶本平家物語』など)。
これらの功績により、文治2年(1186年)、熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた(『吾妻鏡』)。

歴博DBより3つご紹介
上総
【郡名】
畔蒜
【荘園名】
畔蒜庄
【フリガナ】
アビル
【参考市町村】
木更津市

【明治村字名】
(千本小坂等49村)・下郡・真利谷・真如寺・俵田・三田・戸崎・山本久留里・怒田・向郷・愛宕山・亀山・千本・小坂・蔵玉・草河原・釜生・香木原・横田・永吉
【史料村郷名】
南庄・亀山郷・沼田寺・北庄・真利谷郷・上郡葛原刀・永吉郷・横田郷・鹿田・大窪寺
【領家・本家】
熊野山領(領家職か)・円覚寺領(南庄内亀山郷・得宗領)・皇室領(禁裏御服料所=北庄)
【初見年和暦】
文治二年
【初見年西暦】
1186
【出典】
毛利家文書・円覚寺文書・覚園寺文書・周防佐々木文書・真如寺鐘銘・圓照寺梵鐘銘・足利長林寺蔵梵鐘銘・善雄寺蔵観音菩薩像銘・山神社棟札・海晏寺蔵雲板銘
【遺文番号】
カ6207・カ14908・カ14919・カ18898・カ29049
【記録類】
『東鑑』文治2,6,11・『山科家礼記』文明12,11,15・『実隆公記』永正5,2,17・同7,5,7
【関係文献】

【地名辞典】
 角川地名=小櫃川中上流、古代畔蒜郡のほぼ全域、南北に分かれ、庄号は戦国期にも=君津、木更津、袖ヶ浦3市の東部=文治2地頭職は熊野別当、地下は義兼と
【備考】
領家職は熊野社領か・寛元1畔蒜南北庄領主職=山内首藤清俊←母鶴熊=熊野関係者・弘安6関東下知状=南庄内亀山郷=北条時頼、将軍家祈祷料所として円覚寺に寄進=和田乱没収地か・応永18覚園寺所蔵戌神像胎内文書=畔蒜庄横田郷検田帳あり・応永1将軍義満御教書=当庄を佐々木高詮に返付=年貢の内毎月3千疋を禁裏御服料に進済・応永23足利市長林寺蔵梵鐘銘=畔蒜北庄大窪寺に寄進=彼庄者禁裏御祈所=大日本古文書7−1・永正5実隆公記=禁裏御服料所畔蒜北庄=摩利谷某押領・角川地名はアヒル、現地ではアビルという


【荘園名】
畔蒜南庄
【フリガナ】
アビルミナミ

【史料村郷名】
亀山郷・沼田寺
【領家・本家】
円覚寺領
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・円覚寺文書

【備考】
 領主職=山内首藤母堂鶴熊→清俊・→1703002畔蒜庄



畔蒜北庄
【フリガナ】
アビルキタ

【史料村郷名】
大窪寺・長吉郷・鹿田村・横田郷・真利谷郷・上郡葛原刀村
【領家・本家】
禁裏御服料所・皇室領
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・足利長林寺蔵梵鐘銘・覚園寺文書
【遺文番号】
カ6207
【記録類】
『実隆公記』永正5,2,17・同7,5,7
【関係文献】

【地名辞典】

【備考】
 領主職=山内首藤母堂鶴熊→清俊・応永1足利義満御教書=佐々木高詮に畔蒜庄返付=当庄年貢の内毎月3000疋を禁裏御服料に充てる=大日本古文書7−1・→1803002畔蒜庄

氏族
京極氏
父母
父:京極高秀、養父:六角氏頼
兄弟
高詮、吾全秀満、尼子高久
宍道秀益、宇賀野高雅、多田満秀

高光、高数

~~~*~~~

佐々木高詮の兄弟に「尼子」がいる。
武家家伝亀井氏からだが、「その亀井氏が尼子氏と姻戚関係を生じ、尼子の一門と認められるに至った経緯については明確な史料に乏しいが、いずれの頃かにおいて近江源氏と関係が生じたものと想像するしかない。」とある。

京極佐々木氏は遡ると佐々木秀義となり、妻は為義女であり、熊野別当の妻となった鳥居禅尼とは姉妹となる。ただし、為義は40人以上の子どもがいたというので、関係があったかどうかはわからないが、秀義の乳父母であった山内首藤が熊野領を相続しているということは、そしてそれが佐々木高詮に返付する過程には何等かあるのだと思う。

例えば、佐々木信綱の妻は?…など熊野別当系が入っている可能性はないのだろうか?


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源平盛衰記の中の熊野別当教真

2017-09-20 | 熊野氏
 http://www.cyoueirou.com/_house/item/tomokiri.htmこちらのページよりいただいております!ありがとうございます。


源為朝には多くの妻妾がおり、紀伊国熊野山にも女房がいた。その娘は「たつたはらの女房」と呼ばれ、後に鳥居禅尼として熊野本宮・熊野新宮を操った女傑であった。この鳥居禅尼が熊野別当教真の妻となったことに対し、源為義は、
「為義が聟には源平両家の間に弓箭に携はつて秀でたらん者をこそと思ひつるに、諸事・諸山の別当執行といふ事は、好きもあり悪しきもあり。行徳群に抜けぬれば、左様の官にも職にもなるとこそ聞け。行末もしらぬ者に押して合はすらんこそ不思議なれ」
と言って熊野別当教真・鳥居禅尼との音信を断った。
 ある時に「源平たて分れて合戦ある」という風聞が起こり、京都は大いに混乱した。その様子が諸国に浸透し、熊野別当教真の聞くところになった。そこで熊野別当教真は、
「我が身は不孝の者なれども、かからん時力をも合はせてこそ、不孝も赦さるべけれ」
とて紀伊国内で集めた軍勢1万余騎を随えて源為義援護のために上洛した。すると京都の人々はこの様子を見て、
「これはいかなる人やらん。和泉・紀伊国の間にはか様の大名あるべしとも覚えず」
と疑問に思い、問うて見たところ源為義の聟となった熊野別当教真であることが判明した。その話を聞いた源為義が使者を遣わして熊野別当教真に対し、
「氏種姓は知らねども、甲斐甲斐しき者なり。何なる人の一門ぞ」
と質問したところ、熊野別当教真は、
「実方中将の末孫なり」
と返答した。これに対して源為義は、
「さては為義が下すべき人には非ざりけり。今まで対面せざりけることこそ愚かなれ」
とて熊野別当教真を召喚し初めて対面した。源為義は熊野別当教真の志に感じ入り、源家「重代一具」の剣を分与することとし、「吼丸」を聟への引出物として進上した。受け取った熊野別当教真は、
「これは源氏重代の剣なり。教真が持つべきに非ず」
と言って某所権現に献納した。

 一方、源為義は2振1具の剣のうち1振を手放したので、播磨国より腕利きの鍛冶職人を召喚して「獅子の子」をもとにして寸分も違わないものを製作させた。これは「最上の剣」であったので、源為義はこの上なく喜び、目貫の部分に烏の飾りを使用したので「小烏」と命名した。これ以後、源為義は「獅子の子」と「小烏」を1具として秘蔵したが、「小烏」は「獅子の子」よりも2分ほど長かった。
 ある時、源為義が「獅子の子」と「小烏」を抜き身にて障子に立て掛けて置いたところ、誰も触れてはいないのにもかかわらず「からから」と倒れる音がしたので、
「如何に、剣こそ転びぬれ。損じやしつらん」
と手に取って見てみると2分程長かった「小烏」が「獅子の子」と同じ長さになっていたのに気付いた。源為義は、
「不思議かな。さるべき様やある。截れたるか、折れたるか」
とて「小烏」の切先を注視したが何の変化も見出せなかった。不審に思って柄の部分を見ると、目貫が折れて紛失していた。柄より刀身を抜いたところ、中茎に2分ばかりの新しい切れ口が見つかり、目貫を突き抜いて下がっていたのであった。源為義は「獅子の子」が自分よりも長かった「小烏」を切ったのだと考え、「獅子の子」の名を「友切」と改名した。〔『源平盛衰記』〕

~~~*~~~

熊野別当教真とは、どなたのことなのか? 長範か行範か、、

謎であるが、面白い場面の源平盛衰記。
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佐々木行定(佐々木宮神主)の母は紀盛宗。熊野別当長範の息盛宗ヵ?

2017-09-20 | 熊野氏
また、佐々木と熊野との接点に戻ってきているのだが、下野守紀盛宗女が佐々木行定の母である。
・・・行実の母も同じである。

行範は長範の息と言われている。つまり盛宗の弟か、行範が養子かである。

盛宗1084年生まれ 行範1113年生まれ つまり29歳も離れている。つまり盛宗の女と同世代か、行範は、彼女よりも下である。

佐々木家行は、行という字が下についているのだが、法名が「行阿」である。

佐々木宮の歴史に「熊野別当系」が入っていないだろうか?

中原氏の方にも、熊野系が入ってきているのでは…
成行~仲行~季仲

『愛智郡日吉下庄新宮氏知大夫経頼依実子男中原朝臣仲太夫季仲取聟日吉氏下庄相続之』(諸家系図纂)

これ、熊野の新宮氏のことではないだろうか? つまり、新宮氏は知大夫経頼によって、中原朝臣仲太夫季仲聟に日吉庄を相続させる。 



http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b048899ecfea867697d5202c975b8ba6

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c56b2dadabbbb0850860bdcf68311ae5

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熊野別当行範(12) 鈴木重定…「衣川没落終為宇都宮家客」。下野鈴木氏の祖。

2017-09-17 | 熊野氏

鈴木季重は、雑賀氏になっていき、系図がしっかりしていた。

もう一人わからなかった「重定」(重足)のほうは、系図もなく、「衣川没落終為宇都宮家客」。下野鈴木氏の祖。
宇都宮に抑留されていたらしい。この人物の年代がわかれば…この人物なら、江州中原にもつながっていく。

義経の衣川当時には、行範はとうに亡くなっていること、で、やはり別人であると思う。が、次の代なら可能性大である!(重定=重氏という説もある!)

なんと系図に拠っては「行範」「行範」と二代引き続き「行範」となっているものがある…らしい。
もしも、二代続きが本当であるなら、すごいことになりそうである。


鳥居家系図
行範(鳥居禅尼の夫、熊野別当大19代目)


重氏 (行全)
(道観。鳥居法眼。高倉宮御謀反の とき行家が方人となり、のち新宮に住す)


忠氏
(初行忠。伝内。母六条判官為義女。 称渡里伝内忠氏
⇒ 

長詮
(法橋)

「古代氏族系譜集成」に「行範、初名行中」とあったのだが、そうなると三代連続の「行範」となってしまう。。もしそうなら~~*

~~~*~~~

ココになぜこだわりがあるかというと、

九里氏の中に、「熊野」にかかわりのある「九里氏」が存在すること。

ご先祖様のお名前も初名は熊治郎さんであること。

その九里氏は彦根付近で武士としてに仕えていたことがあること。(私の予測では、鳥居忠政女が井伊直勝に嫁ぎ、それについて行ったのではと思われる。)

九里の「謎の別紙」も、鳥居氏=旦那…という可能性もあること。(壬生藩主)

「丸に橘紋」が謎の別紙であり、熊野に関係する九里氏は「折敷に橘紋」であること。




何か解明できそうなのだけれど、力不足。。。残念。


今回は、熊野別当の行範と近江国の行範が同一人物か、その系であろうか?…ということから随分と進んだように思う。

機が熟したら、また掘り下げたい。(全く違っていた…ということもあるかもしれないデス。)





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熊野別当行範(11)どこに九里氏との接点が見えるのか。

2017-09-07 | 熊野氏

熊野別当となる田辺氏・新宮氏・藤白鈴木氏と佐々木氏との関係は源為義と鳥居禅尼・熊野別当第十九代行範・鳥居法眼重氏、だろうか。探せば、もっと接点はあるのかもしれない。

次に、九里氏は「近江国御家人井口中原系図」にあるように「中原氏」の一員とすると、九里氏も物部氏系である。

wikipediaの熊野国造によると、
「熊野国造(くまののくにのみやつこ、くまのこくそう)とは、熊野国(紀伊国牟婁郡、現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した国造。饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖とされる。」とある。

九里氏の系図の中に「住熊野」とある以外に、江州中原氏には多賀氏・井口氏がいて、熊野氏にも至っている。そして戦国時代~江戸初期にかけて親しかった「永田氏」も熊野に多い苗字のようである。


もう一つ「鹿苑日録」の中の「虎上司」「正虎」も楠氏であり、楠木正成の子孫であり、(熊野快慶から繋がる)橘氏の系図に「正虎」が載っている。
そして九里氏の系図の「九里氏の祖=九里太郎」のひとつ手前【経任】にも「改橘氏」とある。
橘氏につながっている楠木氏も気になっている。

この正虎=虎上司は、九里源兵衛に蘊蓄を…いや、演説?をしてくれる人物である。

「天文六年(1537年) 四月
  三日 兼康来。出口中血。
  …
  侘事 九里源兵衛方へ 以虎上司演説。
  …」

下の系図の(59)の中ほどに正虎がいる。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-kitsu-kusunoki.html

http://kusunoki.komusou.jp/masatora.html
上は、素晴らしいHP 私もこのように一人一人に焦点を当てたいが、九里氏は情報が足りない!のが悩み。
鹿苑日録の九里源兵衛と水茎岡山城の浄椿/また忠富王記の中の九里員秀が、人間として少々の想像がつく程度で、他は名前以外の情報はほとんどない。(悲)

いや、ひとりいた。
江戸時代後期は九里八郎右衛門政敬は渋い顔で少し出てくる。(私の曽祖父の高祖父)

ともかく、この正虎が「西孫三郎ノ兄」と呼ばれている事。と江州中原系図のの西氏と関係があるのかを調べる時が来たようだ。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/9adc2f11cd908eab89a2f26f678067d1



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熊野別当行範(10)渡 忠秋年譜による情報より「橘氏」につながるヵ?

2017-09-06 | 熊野氏
年譜の関係する所のみ書き出すと
「高島郡舟木村材木商 渡里政舎(まさいえ)の長男として生まれる。本姓は平氏または鳥居氏・・・
渡氏は紀伊国牟婁郡熊野権現社別当快慶の後裔とされ・・・」

そうだ!  熊野別当 初代「快慶」
webで調べてみると・・・http://www.keyspot.info/fudoki/betto1.html

「嵯峨天皇が弘仁3年10月18日補任。父は左大臣。母は禅師の娘、榎本道信の嫡女である。男子7人、女子1人。治山36年。承和14年11月24日入滅した。」
という素晴らしい答えが載っていた。

この左大臣、私の予測によると【橘諸兄】になると思っていたが、年代が合わない。そこで、浮上してきたのが甥の【藤原永手】であった。(当たっていないかもしれないが・・・)

鈴木氏の系図を見ていただきたい。http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-hodumi-suzuki.html

上から二人目「重氏」母橘廣方女 とある。その橘廣方をクリックする。
橘氏の大きな系図が出てくる。

敏達天皇から難波皇子と春日皇子(小野氏…ここも大事!)に分かれ、難波皇子から諸兄につながる。
諸兄の母親は橘三千代であり、父親は美努王である。三千代は後に藤原不比等の妻となる。

そして(31)の横を見てみると「熊野連高志麿為養子」とあり、そこから「熊野・鈴木・和田・楠木」などの諸氏が現れるのである。

私が快慶の父と思っている人物は、牟漏女王(むろ の おおきみ)の息である。「むろ」は「牟婁」のことだと思う。
そして、この永手が30歳の時に生まれたと仮定し、714年+30=744 で、744年に快慶が生まれたとする。
68歳で熊野別当初代となって、90歳に亡くなる。可能であるが、もっと幅を持たせてみることもできると思う。
永手40歳に生まれてきた快慶とすれば58歳に熊野別当補任、80歳に没である。

橘氏とのつながりのある人物でなければ…という気がしてならないので、このような仮想となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%B8%E6%89%8B

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E6%BC%8F%E5%A5%B3%E7%8E%8B

快慶の母である「榎本道信 嫡女」の榎本氏も、熊野では古い姓である。
http://norichan.jp/jinja/hitokoto/kamikura.htm

ごとびき磐…


一度「熊野」に行ってみたいな。


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熊野別当行範(9)農見大臣重高とは誰だろうか? 

2017-09-06 | 熊野氏
前にも紹介してあったが、この中の「農見大臣重高」とは、いったいどなただろうか?
【紹巴富士見道記の世界】より~

探してみた。

穂積系図1.http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-hodumi01.html

このなかの「673-759 濃美麻呂」が一番近いだろうか。
次に、鈴木良氏 鈴木氏始祖の横の矢印をクリックする。
(40)の重康の右に「重孝 下総鈴木氏祖」とある。この人物からの系が鳥居伊賀入道につながっていったのかもしれない。

重氏が鳥居法眼であり、父親である行範も鳥居法眼であるとし、重氏の子は行忠である。

承久の役(1221年)
新撰大人名辞典の渡里に関する部分に(googlebooksそのまま・・)
「澳里また互理に作る。新左衡門と稱し、熊野別常鳥居重氏の裔である。重氏の子行忠、
承久の役に官軍に屬し、戰&逃れて参河渡里に住したので渡里を氏とし、忠氏と名を更へ
た。忠氏八世の孫が I である。繞勇大力にして新田義貞に屬し、屠~戰功を立てた; -延 ...


さて、1173年に59歳(数え年)で亡くなっている行範
その息は軽く見積もって1115+25=1140
1221-1140=81 

もしも行範40オ歳の時に生まれているなら
1115+40=1155
1221-1155=66

やはり、行範と行忠の間には「重氏」がいるように思う。
行範の孫が行忠(鳥居忠氏)

「駿府在住中の家康の生活を支えた逸話で著名な鳥居忠吉は忠氏の一六代目」という。【紹巴富士見道記の世界】より


~~~*~~~

下総鈴木氏の系図は其の祖である「重孝」以外は見当たらない。
承久の乱以前は、どうだったのか…

そこを調べていると、大変なところにつながっていった。。。


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熊野別当行範(8)鳥居法眼行全 行範の息行全 その息が行忠・・・ということは。。。

2017-09-04 | 熊野氏
どうも、鳥居重氏=行範ではないのかもしれない。

調べているうちに、重氏=行全の可能性が出てきて、そのように書いてある本も出てきた。

そうならば、鳥居法眼重氏が高倉宮御謀反の際にも生きていたであろうと思う。



年代的にも、納得できる。

今まで鳥居法眼重氏=行範と書いていたが、間違いで、鳥居法眼重氏は行全(行範の息)なのではないだろうか?
もう一度考えてみようと思う。

皆さんは、どう思いますか?

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熊野別当行範(7)鳥居氏と佐野鈴木氏

2017-09-04 | 熊野氏
新編岡崎市史によると、「402 ページ
源為義の女で頼朝のおばにあたる鳥居禅尼二九代熊野別当行範の妻)は何か所の
地頭職を給されていたが、その一つ紀伊国佐野荘は尼の死後子息長詮法橋に相伝と
定められていた。ところが長詮の兄法橋行忠は母の命に背いて同荘を押領したのみなら
ず、 ...」

http://www.geocities.jp/okugesan_com/torii.htm

この法橋長詮と忠氏(初名行忠)、二名の名前が合致したということは、やはり佐野庄と鳥居氏、鳥居氏と佐野鈴木は繋がっている可能性大ではないだろうか。
…とすれば、佐野鈴木氏の祖【鈴木季重】=【熊野別当行範】=【鳥居重氏】=【佐々木行範】ということになるのではないだろうか?
季重と行範は、イコールではないかもしれないけれど近いところにいた人物と思えるのではないだろうか。

安易すぎるかもしれないので、もっと探ってみたいと思う。

鳥居家・壬生藩の上記のweb系図に拠ると【重氏 (道観。鳥居法眼。高倉宮御謀反のとき行家が方人となり、のち新宮に住す】と書かれている。
このことからも、源行家と行動を共にしていたらしい。

…とすれば、1173年に亡くなっていない行範???

行家が平治の乱後、熊野にのがれ20年間潜伏していた、そのころのことではないだろうか?
御謀反の時…となれば、もっと長生きだったのかもしれない。

だんだん、わからなくなってきた。

ひょっとすると季重…雑賀党につながっていくのかな?
雑賀党鈴木氏(さいかとうすずきし)は、日本の武家のひとつ。雑賀鈴木氏とも呼ばれる。戦国時代に紀伊国名草郡十ヶ郷の平井あたりを本拠地とし、雑賀衆の頭目的存在であった。当主が代々通称とした鈴木孫一で有名。本姓は穂積氏で、藤白鈴木氏の支流を称する。


近江の平井氏とも関係していくのであろうか?

コメント (1)
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