相模
【郡名】
愛甲
【荘園名】
愛甲庄
【フリガナ】
アイコウ
厚木市
【市町村コード】
142123
【明治村字名】
愛甲・船子
【史料村郷名】
船子郷・岡田郷・土器作田・愛甲・船子・東野・愛名村
【領家・本家】
熊野山領・室町幕府御料所・鎌倉府料所
【初見年和暦】
寛元元年
【初見年西暦】
1243
【出典】
長府毛利家文書・新編相模風土記・松浦文書・松雲公採集遺編類簒・得田文書・内閣文庫所蔵諸国文書・金沢文庫文書
【遺文番号】
カ6207
【記録類】
【関係文献】
有
【地名辞典】
平凡地名=厚木市愛甲、船子、岡田、愛名などを含む=愛甲熊野社、厚木熊野堂あり、熊野社領=愛甲季隆名字の地、荘園成立期は不明=「愛甲保」との関係も不
【備考】
『地名辞典』追加:=愛甲保との関係も不明、玉川流域・カ6207藤原山内首藤清俊を預所并下司職に補任・領主職=地頭職=愛甲季隆?→清俊母鶴熊→山内首藤清俊→→(鎌倉期)足利氏→(室町期)山内上杉氏・荘園志料=「アユカハ」・平凡地名=「アイキョウ」・金沢文庫文書=「あいきゃうのしやう」・→1505005「愛甲保」参照・貞和2事書=年貢1/3は京進、2/3は御免=鎌倉府管理・『出典』追加:神田孝平氏旧蔵文書(鎌倉市教育委員会)・本郷文書
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愛甲庄の記載の中に「得田文書」がある。
得田氏…紀州の湯浅党にも得田があり、大中臣氏の経久の母親の姓でもあり、石川県七尾の近くの徳田(元は得田)にもみられる。そして、この愛甲庄。
webで調べてみると、得田氏は「斎藤氏の一族である。治承5年(1181)源義仲は北陸道を勢力下に置く中で、藤原章通(のりみち)(得田章通)(を得田保、大町保(現羽咋市大町)、甘田保(現羽咋市甘田)、神代社(かくみしゃ)(現志賀町神代)の地頭職に補任した。章通は得田氏の祖で治承・寿永の乱でいち早く反平氏陣営に与した。」とある。
湯浅党の方の徳田氏は平氏よりなので、別系なのかもしれない。(のちには頼朝に降伏している)
この辺り、網野善彦氏の本に出ているらしい。借りて読もうと思う。
得田・富来・中郡・那珂 皆「経久」と関連している。
この「経久」。どうかなぁ・・・九里太郎経久と別人かなぁ。とても気になる存在であり、研究課題!である。
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熊野関係は、はじめは藤原北家と関係が深く、後に西園寺家が檀那として結びついている。
そして、(湯浅)宗永女が藤白鈴木重邦に嫁いでもいる。また、宗永の父は「藤原師重」と言われている。この人は、紀伊権守だそうである。
つまり重邦の息である「重倫、季重、重善、重定」は、湯浅氏と鈴木氏の間である。
wikipediaによると「「湯浅之住人藤原宗永」が、康和元年(1099年)頃にいたことが『粉河寺縁起』にみえる。長男の湯浅宗重は鎌倉幕府成立後、湯浅庄などを安堵され鎌倉御家人に列した。娘は同じ紀伊国内の鈴木重邦の妻となった。」とある。藤原秀郷流。
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頼朝の乳母であった経俊の母
山内首藤 経俊(やまうちすどう つねとし)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼。相模国鎌倉郡山内荘を領した。
山内首藤氏は代々河内源氏の家人であり、祖である首藤資通は源為義(頼朝の祖父)の乳母父を務めた。山内尼は為義の孫頼朝の乳母を務める。