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佐々木氏の系図の中に、記載があったり・無かったりの「成俊」なのだが、
佐々木宮の神職となっていた「経方」の息であった「成俊」という系図をここに載せる。
経方の妻に紀盛宗の娘がいることから、成俊も同じ母とすれば、紀氏を名乗ることもあったかもしれない。
この系図には「甲斐権守」、號「対馬冠者」とある。
後に九里氏に対馬守となった源兵衛がいた事とつながっているようなら、嬉しい。
『成俊は対馬冠者と号し甲斐権守・神主となった。』(系図研究の基礎知識 近藤安太郎著)とある。
この成俊が紀成俊で、しかも伊香郡の中原成俊であったなら‥‥と何度も仮想しているが、決め手はなかった。
が、今回は年代がわかってきた事から、少々進展したかもしれない。
佐々木経方1053年か1055年生まれ、その息成俊は佐々木行定の兄弟の為1070-1080年前後生まれ。
紀成俊が康治元年の1142年に近江少掾。
中原成俊は1091年に出納を、そして1129年越中権守なっている。
私が思うに、中原成俊は1079年あたり、佐々木行定と同じくらいに生まれている。
つまり、三人とも同年代に生きている。
中原成俊=紀成俊=佐々木成俊 である。が、今のところの結論である。
ついでに見つかったのが、下記の情報であった。
これもいつか役に立つかもしれない。
間宮の氏号は鎌倉時代の後期に間野と高宮の二氏号を合せて新たに間宮を称せしものと思われる。 ... 行定もこうした理由から神官となりその嫡男定道も同じ道をたどるが定道の次男定時は、近江国真野城主となりこれより真野姓を称え近江 ..
同時代に「紀成俊」が実在していた。近江掾
近江守・近江介・近江掾・・・の「掾」
大掾は一人のようだが、
少掾は同時に10人もの名前が挙っている。
この人は、ひょっとすると‥‥紀貫之・紀時文の子孫かも知れない。
貫之は近江に住んでいたようで、墓も近江である。
時文は源順集に近江掾紀時文と記載がある。
佐々木経方(1055年か1053年生)の妻も下野守紀盛宗女とある。佐々木行定1080年生(佐々木宮神主)の母親である。(宝賀先生の系図より)
以前から気になっていた佐々木の成俊。
下記には二名の名が載っているので、中原氏とは別人となると思う。が、佐々木宮の神職となった成俊である可能性は十分にあるのではないだろうか?
実は、中原成俊という名前は鎌倉時代貞永元年~寛元三年(1232-1245年)に登場する。つまり、二人以上はいるので、注意しながら進めようと思う。
前回の記事で、中原成俊は1097年初見としたが、『官吏補任』の本なかには寛治5・6年(1091・1092年)があった。
従6位上で、出納を任されている。
史とはどのようなことをしていたのか、wikipediaに載っていたので、参考にしたいと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2_%28%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6%29
こちらのページも優しい語り口で、わかりやすい!
http://www.sol.dti.ne.jp/hiromi/kansei/o_kan_dajo_bensnagon.html
ちょっとわからないのが、下記。年代と役職が様々で…
承徳元年(1097年)従五位下 豊後権介
康和五年(1099年)大蔵抄録等をへて、保安元年(1120年)には豊後守となっている。
大治四年(1129年)越中権守
直ぐ上の文書によると天治元年(1124年)には越中権守となっている。
上記の参入する‥‥とは、高貴のところに参る…の意味だそうだ。
中原成俊は文官であることが上記から分かると思う。
中原成俊の初見は1097年のようである。
次に康和五年(1103年)
大蔵少録(明法学)
1107年周辺 成俊の息である中原成行が愛智郡の大領となる。
その時にすでに孫季仲が新宮経頼の婿となっているという事は、季仲が1087年生まれ、成行が1067年あたり、成俊は1047年あたりに生まれたのかもしれない。
それとも季仲の部分は、年代に関係なく付記されたものか?…そういう可能性もあるかもしれない。
そうなると、1129年には成俊82歳。十歳くらいの誤差があるかもしれない。
が、アバウトに計算してみると、鎌倉時代の中原経久がだいたい合うのではないかと思う。
次に中原成行と孫の中原季仲の情報を探ろうと思う。
友景の先祖は、天武天皇というのが近江国御家人井口中原系図である。
その天武天皇から
舎人親王ー船親王―栄井王ー豊前王ー弘宗王ー長谷・弟の時正ー清原真人正基と続く。
この【舎人親王】は肖像画の模写が残っている。
職符 東市司
琉璃玉四口〈径二寸、若無者壷一十許口、〉
右、平章其価、便付遣使坊令御母石勝、進送舎人親王葬装束所、符到奉行、
大進大津連船人
大属四比元孫
十一月廿日
…とあるので、舎人親王が歿した際には、母の新田部皇女はすでにこの世にはいなかったはずなので、この遣使坊令御母石勝は、装束などを用意した人物のようである。
舎人親王の母方の祖母は「阿倍橘娘」(たちばなのいらつめ)と思う。
その舎人親王の息【船親王】は【船王】と同一人物と思う。
天平宝字3年8月6日、条:、綱文:大宰帥船親王を香椎廟に派遣して、新羅を討つことを告げる。
・・とあるが、翌年に大宰帥が藤原真楯に変わり、新羅に行くことはなかった。
船親王は藤原仲麻呂の乱で、共謀の手紙が出てきて、隠岐に流されることとなる。その際に息たちの「親王」が臣籍降下となり真人となる。が、光仁天皇の時に皇親に復籍となっている。
以下の論文に詳しい。
皇親と賜姓皇親 吉住恭子 著
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/703/1/0030_058_016.pdf
中原月雄
阿衡事件
此の『清原真人正基』の周辺を探ってみたい。
今日の主人公は孝景・政景の兄弟。
政景の息景盛が藤堂太郎となり、足利将軍に仕えている。
このことが後に、九里が足利義澄を匿う事にまでつながってくるのかもしれない。
中原孝景に関する情報は政景の兄ということしか見つからなかった。
政景は後田融院北面、石見守、従五位下 母は甲良信継の娘であり、政景は至徳三年に歿している。
1386年に63歳?で歿している。 1323年生まれ
後田融天皇は在位1371年~1382年である。
この政景の息が景盛で、三河守 藤堂太郎を名乗っている。
足利義持に仕えている。1413年62歳で歿している。ということは1351年生まれ。
足利義持は、在任1395-1423年
系図の註によると宗景の妻となるのが、井口中原系図の経行の系(九里が出ている系)の
【井口員経】となる。
景氏が貞治二年に没したという事のようなので、1296年生まれの人という事になる。
という事は、其の父宗景は1260年あたりに迄に生まれていて欲しい。
とすると、友景の活躍は1254年までであったので、やはり孫となるのではないだろうか。
中原景氏 彦太郎 左衛門尉 左馬允 石見守
文書には石見守はでてこない。また、一件の左馬允の情報のみで、寂しい。
寛元3年(1245年)の記述なので、私としては上記の系図の宗景と景氏の順が入違っていないか‥‥?と心配である。