兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだ。
この【朝廷の命】という部分がひっかかります。
だいたい順信は信親と信広のどちらの法号なのだろうか。
本によっては見解が分かれており、前回のblogに挙げた系図の書き方から見ると信親が親鸞の弟子となったように見える。しかし、順信の名は見えないという事になっているのだ。
【片岡信親=順信房】
【順信の父=片岡信親】
【片岡信親の息ふたり=順信房と乗然房】
【順信=信広=信親の息】
以上が順信は誰か?と言う事で調べたが、様々な意見があるという事であった。
乗然房(親綱)は信親の弟であったのか、息であったのか?も調べるうちに、分からなくなった。
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次に、常陸国枕石寺を創った「日野左衛門頼秋」
この人は近江国の蒲生郡の出身だそうだ。
近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋は、北面武士であった。
驕慢な振る舞いが多く常陸国に配流となった。
のち1207年(承元元年)には赦免されたが京には戻らず、そのまま久慈郡大門に居ついた。常陸国に土着した頼秋は、盗賊をしていたともいわれる。
…と問題のある日野頼秋だったのだが、親鸞も日野氏なので、もともとお互いに名前だけでも知っていたかもしれない。
頼秋は道円となる。
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一番上に貼った情報に「片岡経春も鹿島の人にて神主の族人」とあったことや、片岡親綱が上野国にいたこと等を合わせると、上野国の片岡氏と鹿島宮の片岡氏は同じ一族であろうと思われる。
朝廷の命を調べなくては!と思う。