「奥州の」多賀?の金売橘次という事で、違う人物かもしれないが、一応中原経任(片岡為春)と仮定しよう。
此の人、金売を装って諜報活動をしていたのではないだろうか。
九里家は「調法の家」でもあったようだ。
またいろいろと調べていくうちに何かわかるかもしれない。
さて「波多野御曹司」だという光重とその息の頼重。
頼重が片岡常春の居城であった佐貫城へ案内するわけなのだが、
なぜ此の片岡常春の佐貫城を目指したのだろう。
光重は波多野御曹司という事なので、周囲に波多野氏と清和源氏(摂津・美濃源氏)と通じていた者がいたという理由から義経をつれてきたのだ…と思う。
光重の関係の系図は様々あるが、どれが本当であるのかは私には分からない。が、今回は ↓ を考えてみる。
「光重は実は源光信(土岐氏・出羽判官)の息であり、源頼政の義理の弟でもある。」とすると、ストーリーが浮かび上がってくるではないか! (伊賀氏となった者も近かったのではないだろうか?)
源義朝の息朝長の母でもある中原久経の母は、藤原秀郷流の波多野義通の妹である。
経久の父となる橘次経任は、片岡常春の弟になることで橘荘(三崎荘)の橘を称したのではないだろうか。
下記の系図
(此の光衡の横にいる光行は、光定の父ではなく、別人である。)
光信の息に光基と光重がいて、光基の息に光衡となる。
光衡の息に土岐光行(妻・千葉成胤の娘)となる。
光行の息に土岐光定がいる。(東氏より妻を迎えているが、胤頼では年代が合わないような気がしている。)
上記には【伊賀守光基(出羽判官光信の子)出羽蔵人光重】とある。(源頼政が生きている時代)
そして、その後…義経が登場し、
源光重は下総国相馬(の深栖)にいた。
その場所は、意外と三崎荘・佐貫城に近い!?
野田市の下にあるのが下総国相馬
野田市の上にあるのが下河辺荘(源頼政?八条院の所領)で、下河辺氏が荘司であったと記憶している。つまり、秀郷流の小山氏の裔である。
そして銚子の上に東荘とあるあたりが三崎荘で、佐貫城も近いと思う。
次に佐貫城があった付近。刑部岬
相当な「こじつけ」かも知れないのだが、片岡常春の居城に寄る意味があったのだと思う。(義経は、深栖に一年逗留しいていたという説もある)
片岡為春の息経久は1175年生まれ。
1174年に15歳であった義経が自らの手で元服を終え奥州へ向かっている頃、経久はまだ生まれていない。
常春は1174年には22歳。(1152年生)
為春は1174年には21歳 (1153年生)
片岡弘経の名も見えることから、こちらは中原久経(多分1147年付近生)の弟など、何かしら関係者かも知れない。(?)
義朝の右筆であった時代もあるという久経。
13歳で右筆はあり得るのだろうか?
もしそのように義朝の近くに居たとすれば、同世代の頼朝のことも知っていたであろうと思う。(其の縁で「鎌倉殿御使」 に選ばれたのかもしれない。)
さらに義経の赤子の頃も観た事があったかもしれない。
弘経を調べてみようと思う。