九里 【九里】を探して三千里

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我が九里家古文書より(10)安永三年 1774年 九里清左衛門修政の続 九里家由緒書【3】 

2016-03-12 | 我が九里家と古文書
昨日の続きがまだありました。佐々家よりいらした茂左衛門弟の九里清左衛門修政のことです。

安永二年差し上げ候由緒書以後   養父 九里清左衛門

          
            蘆月院様御代、安永三年(1774年) 六月八日 知行の御書き出し成し下され候、
            天明三年(1783年)正月十一日 御使者番仰せ付けられ、平日勤め向きは是迄の通り、
            御使者番役の面々へ掛け合い勤め筋兼ねて承け合い置き候様仰せ付けられ候、
            
            同年正月十五日、常々御勤め方へ立ち入り御勤め向きの儀、並び江戸御勤め方への文通
            御勤め方の面々連名にて差し出し候様仰せ付けられ候、
            当御代、天明四年九月、御代替えに付き、知行の御書き出し成し下され候、

            同年 九月十一日、御徒士頭助役仰せつけられ候、
            同五年四月十八日 御役人格仰せ付けられ候


【養父】と書いているので、清左衛門が家督を譲った政敬に宛てて書いているか、または、養父のことを政敬が書いて残しているのか…
素人の私には、良くわかりません。古文書のルールとしては、どちらなのでしょうか??
(文字の様子からは、なんとなく政敬の字のようです。)

さて、水野家から叔父と甥の二人が九里家へ続けて入ってきています。

このブログでは、さかのぼり方式にしておりますので、まず甥っ子の初名「亀之丞」から書いていきます。

この、水野家は【平姓】でした。
藤原姓・源姓の多い「九里」が柏原藩では「平姓」なのは、ココから来ているのかもしれません!


柏原藩の水野家の祖は「光信」  北畠具教・蒲生氏郷に仕えており、
息子(三郷)の代に織田信雄に十余年仕え、
天正十八年(1590年)後、蒲生氏郷、
慶長三年 (1598年)秀頼改浅香左馬介
 同五年 (1600年)関ヶ原後浅野幸長
同十九年 (1614年)前田肥前守利常に仕える

と、戦国らしい経歴の持ち主。水野三郷…後日調べたいです。

その三郷の息子が(養子?)【真柄清蔵】八歳で働きの良い三郷の息子であるとのことで、織田信雄の近習として仕え、共に宇陀に来ています。
そして、水野九郎右衛門を名乗ります。

この人の孫が叔父【杢之丞】のほうで、曾孫がこれから登場する【良朴・亀之丞】になります。

では、参ります。

              初名 亀之丞其の後杢之丞
当御代、宝暦五年(1755年)正月十一日  寄り合いの間見習い仰せ付けられ、 
           同七年正月二十四日  外様御中小姓見習い仰せ付けられ候、
           同八年 十二月四日  外様御中小姓仰せ付けられ御擬(あてがい)並の通り成し下され候、
           同十三年正月二十八日 家督相違無く御給人仰せ付けられ候、
     明和九年(1772年)八月十五日 病死仕り候

次回は、叔父の【杢之丞】登場です。

何か間違いや、変なところがあったら、コメントいただけますと有難いです。
コメントは、その章の題名をクリックますと、下の方に出てきます。
どうかよろしくお願いいたします~♪ 
 


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