九里清左衛門
どうも八郎右衛門が亡くなったり、家督を次代に渡すと『八郎右衛門』→【清左衛門】になるらしいです。
九里清左衛門修政 初名は繁治 です。佐々茂左衛門の弟と書かれております。
この佐々茂左衛門は、岡山藩御家中先祖并自分勤仕抜書 に名前が載っているそうです。
代々 岡山藩の方かもしれません!?
では、古文書の続き、参ります!
天明八年(1788年)八月 岡田十右衛門弟 乙蔵儀 願い奉り養子 仕り候、
同年 八月 清左衛門病死仕り候
天明六年(1786年)五月 御目付助役加役是迄の通り仰せ付けられ候、
安永三年(1774年)十一月 安永二年 三月 御眼鏡を以て九里八郎右衛門養子仰せ付けられ、
家督相違なく百五十石成し下され、御給人仰せ付けられ候、
同年 四月 御側御給人仰せ付けられ、唯今相勤め罷りあり候、以上
次回は、修政の養父、水野家からいらした「九里八郎右衛門良朴」です。水野九郎右衛門 二男です。
どうも八郎右衛門が亡くなったり、家督を次代に渡すと『八郎右衛門』→【清左衛門】になるらしいです。
九里清左衛門修政 初名は繁治 です。佐々茂左衛門の弟と書かれております。
この佐々茂左衛門は、岡山藩御家中先祖并自分勤仕抜書 に名前が載っているそうです。
代々 岡山藩の方かもしれません!?
では、古文書の続き、参ります!
天明八年(1788年)八月 岡田十右衛門弟 乙蔵儀 願い奉り養子 仕り候、
同年 八月 清左衛門病死仕り候
天明六年(1786年)五月 御目付助役加役是迄の通り仰せ付けられ候、
安永三年(1774年)十一月 安永二年 三月 御眼鏡を以て九里八郎右衛門養子仰せ付けられ、
家督相違なく百五十石成し下され、御給人仰せ付けられ候、
同年 四月 御側御給人仰せ付けられ、唯今相勤め罷りあり候、以上
次回は、修政の養父、水野家からいらした「九里八郎右衛門良朴」です。水野九郎右衛門 二男です。