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史料を読み解く 第二巻 村の「武士」より 浪合原氏(3)

2021-02-08 | 九里【只今の状況・まとめ】


この浪合原氏が千葉氏の一流の中の良峯姓原氏と同じかどうかの検証みたいなことをしている。
素人にはできっこないかもしれないが、一応私なりに考えてみようとおもう。

ともかく、本の中にあったヒントから考えたい。

「…もともと原氏は、下伊奈郡小松原に居住した葛原親王九代の孫上総次郎兼久を祖とし、地名により原姓を名乗ったという。
次代の盛吉の子が早世したため、上総国千葉常胤の六男常吉を養子として迎え、小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に住み着き、浪合(原)氏の祖となる。」

この部分の、兼久ー盛吉ー養子 常吉(千葉常胤の六男 常吉)…五代後 与九郎胤勝 

昨日は常吉が「つねよし」で、「常義」なのではないか?
とすれば国分六郎常義が千葉氏の一族の中にいる…という処だった。

そこで、今日は「盛吉」を「盛義」と考えてみようと思う。
名前で調べると、当てはまりそうだったのが「東盛義」であるが、年代が前後してしまうと思う。
この人物も偶然「六郎」である。しかも海上郡とも関係がある東氏。

年代は違うが、上記にもヒントとなることがある。
海上氏がその後「矢作氏」になっていることである。
しかもこの系図の中の海上氏は古い方の「海上氏」であり、片岡経春の祖父であった「海上常衡」から繋がっている系なのである。
こちらにも矢作氏そして国分氏にも矢作氏。

とすれば、私が探している海上郡の片岡氏も原氏につながっているんじゃないだろうか?

矢作・臼井・下総系図(一番下にある)
https://chibasi.net/kazusa11.htm

そして、以下のアドレスに「原胤勝」が登場している。

http://chibasi.net/ichizoku8.htm

承久3(1221)年5月に起こった「承久の乱」の後、一族・原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。その子・胤重は松枝合戦で戦死。甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。しかし、武田勝頼が滅ぶと帰農した。

ここで、私としては疑問符が付く。

1221年の、とはいつ頃なのだろうか? 本に出てきた人物と同一人物と思えるのだが。
3つの流の原氏が皆それぞれが、信州へ向かい武田信玄の許に行った、とある。

何故3つの流が同じく信濃国へ、なのだろう。
元々は、繋がっていたからではないのだろうか?
そういえば、良峯姓の系図では、良峯・椋橋・橘氏は書かれているのだが、「原」とあるのは高成と高春だけではないだろうか?
もしもそうであるならば、上総氏の姉妹を妻としてから「原氏」を名乗り始めたことになると思う。

柏原藩の系図をチェックしてみよう!
高春がいない系図だが、この系図内の高長の兄にあたると思う。





上総広常の姉妹を原高成は妻とした。其の続きの原氏。
良峯(橘氏・椋橋氏)が上総に入って初めて「原」を名乗り始めたと考えると、
そうだ!元から上総氏・千葉氏にあった原氏に組み込まれたという事になるのだと、今 気が付いた。

もう一度復習。
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

良峯氏

惟光の長男 恒季(散位従五位下)
恒季の長男 季高(四度使 従五位下 立木田大夫と号す)
季高の長男 高成(妻 上総権介平常廣の)    
高成の長男 高春(二宮大宮司) 
高成が上総守の時
(二宮大宮司 原大夫と号す。)
高成の次男 高義(四度使 立木田大夫
高成の娘 (平 忠盛の妻)
                                       
高重(四度使 後堀川院の時 橘 高重と称す)
宗高
秀高 (四度使) 


季高が、12世紀初め 丹羽郡司であった頃、
季高の子 高成を二宮宮司となし、原大夫と名乗らせ、
自身も上総守にも任じられたようです。
その子 高春は、原 大夫と名乗り、二宮大宮司であり、原大夫 高春の末裔は、南北朝動乱期には、南朝方に属したようです。(春日井市史・小牧市史 参照)


尾張国の良峯氏から上総氏の原氏に入ったと考えるべきだったのだ。

南朝方、浪合神社(下伊那郡阿智村浪合)の【尹良親王(ゆきよししんのう)】伝承とも合っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AA%E5%90%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE


そして片岡氏も南朝方!








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