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史料を読み解く 第二巻 村の「武士」より 浪合原氏(2)

2021-02-07 | 九里【只今の状況・まとめ】

もう一度ここから考える。

「…もともと原氏は、下伊奈郡小松原に居住した葛原親王九代の孫上総次郎兼久を祖とし、地名により原姓を名乗ったという。
次代の盛吉の子が早世したため、上総国千葉常胤の六男常吉を養子として迎え小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に住み着き、浪合(原)氏の祖となる。」

この部分の、兼久ー盛吉ー養子 常吉(千葉常胤の六男 常吉)…五代後 与九郎胤勝 

常胤の六男は「東胤頼」のはずである。

この人(胤頼)の幼名が「常吉」なのだろうか? いや違うと思う。
「つねきち」ではなく、常吉は「つねよし」と読むとすると、一人候補がいる。

常胤の息 五郎胤通の息 国分六郎常義である。矢作国分氏とも云うようである。

「 国分胤通の六男・常義が香取郡大戸庄矢作村を領して「大戸矢作領主」となった。
この流れが実質的に国分氏を代表する家となるが、常義のころは兄・常通が惣領であったと考えられる。」
と、千葉氏のHPにあったと思う。

千葉氏を調べていると、以下の人物が矢作氏と共に出てくる。
了行法師である。
一族の原氏出身の僧了行は九条家(摂関家)に仕えて渡宋し、嘉禎二年(一二三六)、一切経や「観音玄義科」などの経典類を請来した。彼の僧位は法印に到り、千葉氏の負担した閑院内裏西対の造営にも参画したが、九条家との関係から宝治合戦後に幕府転覆を謀って捕縛されている。

「了行法師らの謀反事件」というそうだ。
下のアドレスのページで勉強させていただいた。

「了行は千葉氏から分家した原氏の一族。勧進聖として活動していた僧侶だったらしく、4代将軍藤原頼経の内意を受けて工作活動に従事していたようです。」

「矢作六郎常義の次男で、大戸荘山野辺郷(千葉県香取市山之辺)を所領とした六郎次郎左衛門尉常氏とも、千葉氏分家・海上(うながみ)氏のその又分家の子孫・矢作左衛門尉胤氏ともいわれ、特に矢作国分常氏は頼経の近習となっていました。」とあり。

http://kasaikiyoshige1219.livedoor.blog/archives/2017-03-11.html

===*=== ここから先は全くの想像である。===*===

良峯原氏は尾張国二宮の神主の系であり、熱田神宮家とも婚姻関係があったであろうと云われている。
つまり、源頼朝にとっても大切にしたい人達であったのではないかと思う。
ある意味 貴種とまではいかなくとも、わざわざ東国にやってきた人であったのではないかと思う。

上総広常一族が歿し、または散り散りになった後、そこに残された良峯姓原氏の息でもあった「上総次郎兼久」は、跡取り孫として、千葉常胤の子孫六郎常吉を養子としてもらったのではないだろうか?
上総氏の亡きあとの領地を継ぐためには、千葉氏の中でも上総氏に近かった者が必要があって、それには、上総氏とつながりのあった原氏が適役であったのではないか…という想像なのだが。


上総広常は千葉常胤よりもかなり年下であったと「一宮史」の中に書かれていた。
常胤の息であった国分五郎胤通の息 国分六郎常義 がピタリと当てはまるのではないだろうか?


===*===

・・・とこの周辺を調べていたら、千葉胤正の妻は「上総広忠の娘」であった。少なくとも「千葉成胤の母」は上総広常の娘であったのだ。

このように千葉胤正が上総氏から妻を迎えるという事は、常胤と広常との関係があったからで、常胤の子孫が養子として上総兼久の孫に入ってきても不自然ではない。

因みに、この上総広常の娘の姉妹には小笠原長清に嫁いだ人平時家に嫁いだ人がいた事も大事なことと思われる。
万五郎が亡くなった後助成をしてくれたのは小笠原靫負であった。
この人は、古くから伊奈郡松尾城主であった小笠原家の末流とある。

この助成してくれた…と云う部分に鎌倉時代からの関係が緩くともつづいていた、とも考えられるではないか、と思った。

さらに、蛇足的だが、平時家の娘は大江広元の息親広に嫁ぐことになる。

===*===

ともかく【常吉】がキーパーソンであると思う。


https://www.town.ichinomiya.chiba.jp/assets/files/kyouiku/%E4%B8%80%E5%AE%AE%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%89%9C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%8C%E5%B9%B3%E5%BB%A3%E5%B8%B8%E3%80%8D%E3%81%BB%E3%81%8B.pdf


===*===
参考文献 

野口実氏 著「京都と鎌倉  宗教・文化研究所公開講座講演録要旨」・「東国武士の在京活動と入宋・渡元-武士論の視点からー」(『鎌倉遺文研究』第二五号、二〇一〇年)、同「鎌倉時代における下総千葉寺由縁の学僧たちの活動ー了行・道源に関する訂正と補遺1」(京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』第二四号、二〇一一年)。


忘れないようにmemo
平忠度 天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも)。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。 治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守


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