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上記の本によると、
崇峻天皇が蘇我馬子・東漢駒に暗殺された記述は…下記の引用文献のなかでは日本書紀にしかないのだそうだ。
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日本書紀の捏造…なぜ、この部分を捏造したかったのかを考えたい。
また、暗殺されていないとすると聖徳太子が息たちを匿う必要もないことになるので、また事情が変わってくる。
何かの帳尻を合わせるためだったのではないだろうか。
「592年の暗殺されたという説」以降の事と関係があるかもしれない。
そこにクリアになってはいけない(藤原不比等・持統天皇にとって都合が悪い事)何かがあったと仮定する。
崇峻天皇は73歳まで生き延びたのではないかと、この本は主張している。
そのようになっては都合上困る‥‥という日本書紀。
崇峻天皇の子どもが、それ以降も生まれていた事が問題であったのではないだろうか?
そこをもみ消したい‥‥という事が、捏造につながったのではないだろうか?
私としては、もう一度、まっさらな状態から再考する必要がありそうである。
崇峻天皇=長谷部大王、泊瀬部王、泊瀬王、泊瀬仲王…
泊瀬仲王は崇峻天皇の別称のようだが、此の「仲」は江州の中原・仲原の「仲」なのではないだろうか?・・・と、いう処から江州中原氏と繋げたのかもしれないことも気にかかる。
さて、どのように展開していくのか。
上記の本の続きを読んで行こうと思う。