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按察使局伊勢の周辺

2019-11-26 | 雑記



この意味を考えてみた。

まず「按察使」には、大納言・中納言の名目上の兼職という意味も含まれていることを知った。

「局」は宮殿内の屏風や几帳 (きちょう) などで区画されて設けられた部屋,転じてそこに居住を許された女房などをいう。(コトバンク)


吉田経房は(1143年-1200年)は、建久6年(1195年)には中納言に昇進し、同9年(1198年)には権大納言にまで昇進する。
しかし、1195年よりも前に「按察使」を名乗っているはずの按察使局伊勢である。
ということは、経房ではなく別の吉田氏か、別人の中納言・大納言か。
因みに藤原公通も「権大納言 按察使」の官位を賜わっている。

公通の妻(実明の母)は藤原通基 (大蔵卿)の娘であり、妹には藤原休子(藤原信隆室) とその娘の藤原殖子(七条院)がいる。(同母かどうかまではわからないのだが。)

藤原殖子は「坊門殖子」のことであり、高倉天皇の後宮で、後高倉院(守貞親王)と後鳥羽天皇の母となっている。

藤原公通のほかの娘が院に出仕していても何ら不思議はないと思う。



一方、卜部信厚卿のことだが、その人物に直接つながる情報はないものの、やはり基仲の周辺ではないかと思い、探している。

===*===

以前書いた記事があるので、その部分を切り出すと以下のようになる。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bf4bd9d89723b9108ff24e4d1d992ffd


卜部基仲の娘が非常に有名な人だったらしく、あちらこちらに登場します。

その名前は『建春門院伯耆』(平時子と異母姉妹の建春門院に仕えていた卜部基仲の娘)

建春門院伯耆(けんしゅんもんいんのほうき)鎌倉時代初期の歌人。近江守卜部基仲の娘。神祇伯仲資王の妻。(花山源氏)

…とあり、高倉天皇の生母である建春門院平滋子に出仕、後に土御門天皇の内裏女房。また、斎宮の乳母を務めたという、スーパーな活躍をした女性です。

===*===

この建春門院伯耆と按察使局伊勢と重なってくる。


卜部出身の源氏もいる。
源仲頼
?-? 平安後期-鎌倉時代の武士。
卜部(うらべ)兼仲の子。源資遠の養子。検非違使(けびいし),後白河上皇の北面の武士をつとめたが,平清盛の訴えにより讃岐(さぬき)に配流となった。平家滅亡後,鎌倉幕府御家人となり,文治(ぶんじ)元年(1185)勝長寿院落慶供養のとき源頼朝の供をした。

===*===

話を戻す。


どうも基仲周辺がおかしいと思い、他の系図を見るとやはり基仲に分かれる際の線が間違って書かれていたようである。
日本の苗字七千傑の「卜部氏」を見てみると納得できる。




そして「信厚卿」と思われる人物が見つかった。「信弘」が出家法名とある。




信厚卿が信弘であったならば、基仲とほぼ同世代である。卜部兼貞のことである。

公通にはじめは仕えている局であったため「按察使局伊勢」となり、その後安徳天皇に近侍した、のかもしれない。(想像)

===*===

web情報の「平野大原史」https://blogs.yahoo.co.jp/hdhxm029/28134689.html

重要なヒントが書かれていた。

元暦二年(1184)旧暦二月十三日、壇ノ浦に向かう、平家の本隊に遅れて、現在の柳井市平郡島の西の入り江に、女官を乗せた船団が帆を休めていたが、源氏の手の者に発見され討たれた。
 平家の女官の弔いに、 高倉天皇の侍従、平野社権大副卜部兼貞社務から、祭司を島の西部の門ヶ浦に派遣、み霊を赤石神社に祭祀して弔う。

===*===

‥‥もしも信厚が信弘であり卜部兼貞ならば、高倉天皇の侍従であったという事になる。
高倉天皇、安徳天皇、平徳子に兼貞の娘(按察使局伊勢)が近侍していたとしても不思議はない。

===*===

以前調べた際にはなかった「藤原実明」のwikiwandができていた。
他にも、播磨守としての文書も見つかった。




~~~*~~~
以下はmemo

和泉
【荘園名】 宇多庄
【フリガナ】 ウタ
【重複コード】 0402020
【参考市町村】 泉大津市
【市町村コード】 27206
【明治村字名】 宇多大津・忠岡・板原・下馬瀬
【史料村郷名】
【領家・本家】 皇室領・後宇多院領・八条院領・昭慶門院領(庁分)・梅宮領・興福寺領(室町期)・一条院領(報恩講料所)
【初見年和暦】 久安三年
【初見年西暦】 1147
【出典】 後鳥羽院熊野御幸記・竹内文平氏所蔵文書・昭慶門院御領目録・又続宝簡集・高野山文書・高野山寛範伝・和田文書・興福寺所蔵覚遍本明本抄裏文書・三箇院家抄二
【遺文番号】 カ4753・カ5060・カ20157・カ22661
【記録類】 『台記』久安3,5,18・同5,20・同5,27・28・『玉葉』治承3,8,10・『明月記』建仁1,10,6・『大乗院寺社雑事記』文明11,5,13
【関係文献】 無
【地名辞典】  角川地名=大津川右岸、泉大津市宇多~和泉市府中町=久安3初見、鳥羽院領、基仲庄務=安元2八条院目録、宇多勅旨=南朝より和田助家地頭職=室町期、一条
【備考】 平凡地名=起源は宇多天皇勅旨田・→0402020宇多勅旨・泉大津市~泉北郡忠岡町に及ぶ・久安3=梅宮社司が庄務執行の人に付き院に密奏=兼仲の弟基仲に庄務恩給=故待賢門院が基仲に付=学官院造営のため・治承3=梅宮領宇多庄=神主の申請により畠所当免除・ヘ5060安元3八条院領目録=庁分御庄=和泉国宇多勅旨・『領家・本家』追加:和田助家領(領家職)




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