母は伊賀守源光基(みつもと)の女である【藤原秀能】
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7
兄は『藤原秀康』である。(秀能と同母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7
この最後の行に『優れた歌人であった弟の秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。』とある。『新三十六人撰』作者の一人で十首とられている他、『新古今集』以下の勅撰集に七十九首入っているそうである。
優れた歌人であったことで命拾いをしたようだ。
wikipediaによると「承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。」とあり、「『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。」とコトバンクに載っている。
その秀能は「藤原秀行」の父になるわけで、源頼政と同じ敷地かお隣に住んでいたかもしれない。
そして、秀能だが歌関係で西園寺家の歌会に出ていただけではなく、藤原定家とも時代が被るので行き来があったであろうと調べてみると…
秀能女が「定家の妻」であり、定家との間に長男となる「光家」を生んでいるのである。
ところが、その光家は歌のことで定家からは厳しい批判を受けている。また、秀能女とも離縁となる。
webにあった光家情報 http://www.geocities.jp/wasedachuseinokai/happyoyoshi7.html
(1)『浄照房集』の歌枕・地名歌について 修士二年の方の研究である。
『浄照房集』は藤原定家の一男藤原光家の家集である。浄照房という房号を外題にし、四一首(内他人詠三首)の小歌集であるという外貌を持つ光家の家集は、俊成・定家と続く御子左家の名跡に繋がる家集としては異色なものといえよう。その四一首の内約半数の二二首は、俊成、定家もまだ経験したことのない筑紫往還の歌枕、地名歌が占めている。家集の中心にこれらの歌を据えた家集編纂者の意識を検討し、あわせて自他撰の判別の検討をも試みる。
『浄照房集』には光家の二度の筑紫往還の歌が対置されている。一度目は順徳天皇の即位を宇佐宮に告げる宇佐使としての侍従光家の歌が、二度目はその順徳院の御代は既になくなり、僧体に身をかえた浄照房の歌がそれぞれ収録されている。
初度の旅の歌には最勝四天王院障子和歌に設題された歌枕や、源氏物語、栄華物語の文学遺跡である歌枕などをとりこみ、筑紫に左遷された道真、伊周ゆかりの地名を詠みこむなどして古典や故事に通じていることのアピールともとれる歌が並び、また定家の歌に依拠したと思われる歌が多く見られるところから、これらの歌は定家を宛先として詠歌されたものと思われる。また宇佐使いとしての任務を遂行しているというパフォーマンスともとれる歌もあるところから順徳院も宛先に想定していたと考えられる。
さて、宇佐使の旅の途次で門司関を詠んだ光家の歌が、建保名所百首の順徳院の白河関題の歌に発想、設定、趣向が著しく類似していることについて、内裏名所百首題の選定者であり、順徳院の歌の指導者、光家の父である定家の介在を想定することは極めて自然なことと考えられる。
光家の順徳院即位を受けて旅した初度の筑紫往時の歌は、定家の手によって、歌紀行か小歌集のようにまとめられ、順徳院の叡覧に供せられたのではないだろうか。自らの歌が叡覧に供せられたばかりか、順徳院の発想の根源になったとなれば、それは、光家の詠作史における最も輝かしい事跡に違いない。こうした折の作品を選歌して家集に編纂するのは当事者ならではの営為と考え、『浄照房集』は自撰であることの理由の一つと考えた。
~~~*~~~
…なるほど。
wikipediaに【『明月記』天福元年(1233年)4月17日条に定家と浄照房(光家)が出家前にもうけた娘の行く末について相談したことが記されているものの、その後は九州方面に下ったとされること以外、動静は明らかでない。】とあったが、順徳天皇は承久の乱後佐渡に流されているので、天福元年以降の九州方面…とは、二度目の筑紫行だったのかもしれない。
すっかりと道がそれたが、私が調べたかったのは秀行のことであった。。。。
秀行は又の機会に。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7
兄は『藤原秀康』である。(秀能と同母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7
この最後の行に『優れた歌人であった弟の秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。』とある。『新三十六人撰』作者の一人で十首とられている他、『新古今集』以下の勅撰集に七十九首入っているそうである。
優れた歌人であったことで命拾いをしたようだ。
wikipediaによると「承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。」とあり、「『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。」とコトバンクに載っている。
その秀能は「藤原秀行」の父になるわけで、源頼政と同じ敷地かお隣に住んでいたかもしれない。
そして、秀能だが歌関係で西園寺家の歌会に出ていただけではなく、藤原定家とも時代が被るので行き来があったであろうと調べてみると…
秀能女が「定家の妻」であり、定家との間に長男となる「光家」を生んでいるのである。
ところが、その光家は歌のことで定家からは厳しい批判を受けている。また、秀能女とも離縁となる。
webにあった光家情報 http://www.geocities.jp/wasedachuseinokai/happyoyoshi7.html
(1)『浄照房集』の歌枕・地名歌について 修士二年の方の研究である。
『浄照房集』は藤原定家の一男藤原光家の家集である。浄照房という房号を外題にし、四一首(内他人詠三首)の小歌集であるという外貌を持つ光家の家集は、俊成・定家と続く御子左家の名跡に繋がる家集としては異色なものといえよう。その四一首の内約半数の二二首は、俊成、定家もまだ経験したことのない筑紫往還の歌枕、地名歌が占めている。家集の中心にこれらの歌を据えた家集編纂者の意識を検討し、あわせて自他撰の判別の検討をも試みる。
『浄照房集』には光家の二度の筑紫往還の歌が対置されている。一度目は順徳天皇の即位を宇佐宮に告げる宇佐使としての侍従光家の歌が、二度目はその順徳院の御代は既になくなり、僧体に身をかえた浄照房の歌がそれぞれ収録されている。
初度の旅の歌には最勝四天王院障子和歌に設題された歌枕や、源氏物語、栄華物語の文学遺跡である歌枕などをとりこみ、筑紫に左遷された道真、伊周ゆかりの地名を詠みこむなどして古典や故事に通じていることのアピールともとれる歌が並び、また定家の歌に依拠したと思われる歌が多く見られるところから、これらの歌は定家を宛先として詠歌されたものと思われる。また宇佐使いとしての任務を遂行しているというパフォーマンスともとれる歌もあるところから順徳院も宛先に想定していたと考えられる。
さて、宇佐使の旅の途次で門司関を詠んだ光家の歌が、建保名所百首の順徳院の白河関題の歌に発想、設定、趣向が著しく類似していることについて、内裏名所百首題の選定者であり、順徳院の歌の指導者、光家の父である定家の介在を想定することは極めて自然なことと考えられる。
光家の順徳院即位を受けて旅した初度の筑紫往時の歌は、定家の手によって、歌紀行か小歌集のようにまとめられ、順徳院の叡覧に供せられたのではないだろうか。自らの歌が叡覧に供せられたばかりか、順徳院の発想の根源になったとなれば、それは、光家の詠作史における最も輝かしい事跡に違いない。こうした折の作品を選歌して家集に編纂するのは当事者ならではの営為と考え、『浄照房集』は自撰であることの理由の一つと考えた。
~~~*~~~
…なるほど。
wikipediaに【『明月記』天福元年(1233年)4月17日条に定家と浄照房(光家)が出家前にもうけた娘の行く末について相談したことが記されているものの、その後は九州方面に下ったとされること以外、動静は明らかでない。】とあったが、順徳天皇は承久の乱後佐渡に流されているので、天福元年以降の九州方面…とは、二度目の筑紫行だったのかもしれない。
すっかりと道がそれたが、私が調べたかったのは秀行のことであった。。。。
秀行は又の機会に。