明応八年に『 九里宮内左衛門尉種信』が大徳寺文書に見える。
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そしてその次の年である明応九年、『九里四郎次郎員秀』が近江蒲生郡志に出てくる。
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この九里員秀が飛鳥井雅康より「蹴鞠秘伝五部抄」をいただいている。
忠富王記に中にも「舟木庄代官」や「頭」と書かれている九里員秀。
後柏原天皇践祚の際に御禮として献上したようである。
ここで重要なのは、この時の将軍が「足利義澄」であり、永正5年(1508年)には、近江国に逃げてきて水茎岡山城に匿われることとなる事である。
後柏原天皇の践祚の際の状況がwikipediaにあったのでここにコピーする。
【11代将軍・足利義澄が参議中将昇任のために朝廷に献金して天皇の即位の礼の費用にあてることを検討したが、管領・細川政元が「即位礼を挙げたところで実質が伴っていなければ王と認められない。儀式を挙げなくても私は王と認める。末代の今、大がかりな即位礼など無駄なことだ」と反対し、群臣も同意したため献金は沙汰止みとなる(『大乗院寺社雑事記』(尋尊大僧正記)文亀2年6月16日条)など、主要な献金元である室町幕府や守護大名も逼迫していたために資金はなかなか集まらなかった。】
この時の管領が細川政元であったことも、今後の九里の上司的存在となっていくので、注目したい。
さらに1499年には、九里員秀の娘は大内に宮仕していたこと。
この九里宮内左衛門尉種信は近江蒲生郡の土地をどうしたのだろうか?
何方か読める方がいらしたら、ご教示くださいませんか?
松太蔵人…と見えるので「松田蔵人数秀」のことだろうか??
宮内左衛門尉なので、この種信の系はずっと院に仕えていたのかもしれない。
その縁で、員秀も舟木庄の代官となりえたのかもしれない。
舟木庄は忠富王記のほか、歴博DBによると、
「 加茂別電神社文書・長命寺文書・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・後奈良院宸記・日吉社并叡山行幸記・大島奥津島神社文書・南禅寺文書・菅浦文書 」に記載があり
「法勝寺領・禁裏御料所・皇室領・醍醐寺領・三宝院領・賀茂別雷社領・賀茂社領・南禅寺領・三鈷寺領 」の領であったことがあることが書かれている。
「種信」って、貞信もいることから「信」が通字なのかもしれない。
貞信・種信(宮内左衛門尉)・信隆(備前守)・信賢(備前守)…が一族だろうか?
昨夜から読み始めましたが、一読ではやはり2割くらいです。
所で、例の件で図書館が一斉に休館です。若干お時間を頂ければ。
そこで、この『 九里宮内左衛門尉種信』が大徳寺文書に見える。とありますが、見たサイトをお教え下さい。解読のヒントがあるかも。
拙句
シャンポリオン五千年夢おぼろげに
(エジプトのファラオの夢を解読したシャンポリオンを目指して?)
賣渡進 松殿田地之事
のように見えます。他のページを参照して見ました。
富士見市と川越市で感染者が出て、東武東上線の満員電車も要注意です。咳、くしゃみ多数います。今朝霞ですが。
拙句
おぼろげに見し富士山もあやふやに
札幌もコロナがすごく身近になっています。
書類を渡しに行った某所で、感染者出た…など。
私自身も、もうすでにかかっているかもしれず、なるべく山に籠っております。
二月の中旬に「流氷」を見に行ってしまい…やめておけばよかったかな・・・と。
遠く地平線がふんわりと白く浮かんで見えるような不思議な感覚でした。