九里 【九里】を探して三千里

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九里氏の始りから明治までの流れ(5)熊野の九里氏

2020-03-09 | 九里【只今の状況・まとめ】

蓮忍の曾孫の「乗如」は甲賀の般童寺に僧として行っている。
1300年位のことと思われる。

般童寺は「飯道寺」のこと、と甲賀郡志 下巻にある。


https://myagi.jp/images/travel/kouka/handousan016.jpg


http://butsuzowonderland.com/area/siga/konan/handouji/
甲賀市水口町の南西には飯道山という近江修験の霊山として信仰を集めた山がある。 その麓の水口町三大寺に、三躰の仏像を祀る飯道寺がある。飯道寺はもとは飯道山の山頂に飯道神社と共にあり、明治の神仏分離で三大寺全てが廃絶となった。 そののち、伝統を継承するために本覚院と呼ばれて残されていた飯道山里坊の一つであるこの地を飯道寺と改称し現在に至っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E9%81%93%E5%AF%BA

===*===

蓮忍の高孫「秀方」の裔は熊野に1330年位から住していると思う。

が、系図に次に現れるのが1484年。
熊野に関係する人は和歌山九里系図の「行長」からで1484年熊野前坊とある。


修験道の寺と熊野は繋がっている。
行長の兄「回尊」(または圓尊?)も般童寺となっている。
行長の註にも「般童寺 越前房」と見える。


wikipediaより1300年代~を見ると、
鎌倉時代後期以降には熊野三山との関係が深まり、嘉元年間(1303年 - 1306年)には熊野の僧行範が熊野修験を伝えたとされ、応永31年付(1424年)の熊野本宮の古文書によれば、飯道寺先達の達慶が三雲村(滋賀県湖南市三雲)の熊野講衆徒15名を引き連れて熊野三山に参拝したと伝えている。

室町時代以降の飯道寺、特に梅本院・岩本院のふたつの坊は、当山派修験正大先達三六カ寺のひとつに数えられる有力寺院であり、諸国の当山派山伏を支配した。

大峯山小篠宿の諸堂の管理権限を明治初年の神仏分離まで掌握し続けただけでなく、これら2院から大峯山入峰を果たした諸国の山伏に発行した補任状は、北は陸奥国から南は日向国まで日本全国に及んでいる

また、熊野新宮の本願所である新宮庵主霊光庵には、天文18年(1549年)に当寺水元坊の善成坊祐盛が本願となっていたのを早い時期の例とし、永禄9年(1566年)に梅本院の大先達行鎮が入寺して以来、17世紀の初頭まで梅本院から庵主が迎えられるようになる。

===*===

この前坊というのが、梅本院か岩本院であったのだろうか?
九里のお墓がたくさんあるのが熊野「大智庵」で、本宮のすぐ前にあり、昔は天皇家の人が泊まる場所であったそうだ。

いつのことかはわからないのだが、高野山文書に九里兵右衛門の記載がある。


===*===

蛇足だが、1580年
天下統一期年譜さんより
http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho14.htm



信長は、その二年後に没する。熊野の調略とは…




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