先日コメントに頂いた情報と、web上(千葉氏HPさんより)や、他にあった情報を合わせていこうと思う。
・1450年(宝徳二年) 1月 4日(57歳)
原与九郎胤勝
原胤勝・・・千葉氏HPさんより「一族・原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。その子・胤重は松枝合戦で戦死。甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。しかし、武田勝頼が滅ぶ(1582年)と帰農した。」
資料を読み解く第二巻「もともと原氏は、下伊那郡小松原に居住した葛原親王九代の孫上総次郎兼久を祖とし、地名により原姓を名乗ったという。 ... を養子として迎え、小松原を所領としたが、その五代のちの与九郎胤勝が浪合に住み着き、波合(原)氏の祖となる。」
上伊奈郡史「庶流原與九郎 胤勝なるもの鎌倉時代に始めて下條氏に仕え三百六十貫文の所領を得、共の子 原與四郎胤重は松枝合戦に從ひて討死し、其の子與惣兵衛胤直及び共の子柳之助胤 房 ..は根羽にて」
・1440年(嘉吉元年) 4月18日(24歳)
原与四郎胤重
原胤重…原與四郎胤重は松枝合戦に從ひて討死する。
・1488年(長享2年) 5月13日(69歳)
原与惣兵衛胤直 (胤重:弟)
原胤直…根羽にて討死。(上伊那郡史)
・1473年(文明5年)11月10日(31歳)
原柳之介胤房
戒名が違うため、同世代の「原胤房」(千葉介胤直に仕え「円城寺下野守尚任」とともに側近となる。)の人物とは別人と思う。
原胤房…根羽にて討死。(上伊那郡史)
・1516年(永正13年)11月 5日(59歳)
原小三郎胤続
原胤続…南條にて討死。(上伊那郡史)
・1531年(享禄四年) 9月20日(55歳)
原出羽守胤春
https://books.google.co.jp/books?id=qCuILK-kyeAC&pg=PP1172&dq=%E5%8E%9F%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%AE%88%E8%83%A4%E6%98%A5&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiT6pyS3cfuAhXHZt4KHQi6AAsQ6AEwAHoECAQQAg#v=onepage&q=%E5%8E%9F%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%AE%88%E8%83%A4%E6%98%A5&f=false
対馬守胤行、其の子胤吉…更科郡に出陣して討死。
「其の子、弾正忠胤光 弘治二年 主家と共に武田氏に属し、浪合及び小松原(下條村において知行六百貫文を領し、当所の関所を守衛したり。」(上伊那郡史)
・波合備前守 胤成(曾祖父)
1538年~1575年
代々信州に居住、武田家臣に属す。
美濃と信州を結ぶ波合関所を預かり務める。
勝頼の時代に旗本に召し抱えられ
足軽50人預かりになるも武田家滅亡後は出家し、
尹良山堯翁院の開基となります。
「資料を読み解く」第二巻「…求馬の曾祖父波合備前は、勇壮な武将として
南信濃では名を知られた波合備前守胤成の子万五郎である。波合備前守胤成は…」
「元亀二年に至り(胤光の)嫡子七郎兵衛胤秋を伴い武田軍に参加…親子共に討死
七郎の一子胤定(胤實)未だ立つ能はず、由て信玄の命により胤光の弟原備前守胤成に四百四十貫文を渡して浪合の館を継かしめ、胤定には小松原に於いて百六十貫文を分知して移住せしめたり。」(上伊那郡史)
・原与一右衛門(祖父)
武田家が滅亡し、胤成出家の後に浪人となり飯田藩の小笠原家家臣となります。
大阪の陣の折には摂津に赴き負傷し再び浪人になるも、松平定綱に浪人分として仕えるも喧嘩が原因で立ち退き、故郷信州伊那群小松原の民家に居候した後病死。
・原杢右衛門(父)
知久の伊左衛門の協力の元、信州波合関所に居住する。
・原八右衛門(叔父)
近藤織部殿の知行地小松原にて百姓になる。
・原茂左衛門(叔父)
松平左近殿に仕えたのち浪人し信州に戻ってきました。
・原与一右衛門(兄)
叔父の杢右衛門の跡継相続。
memo
尹良親王とも関係のある「阿智神社」
千葉氏さんHP 原氏より memo
平安時代末期、千葉三郎常房(鴨根三郎)の弟・常余(四郎)を祖とする。諸国に広まっていった流れは、この流れが多いようだ。常途は下総国香取郡原郷(多古町染井)に住んで原四郎と称した。子孫は原郷の周辺に移り住んで、円城寺・岩部・仁戸田・牛尾・飯篠・原口・江里口・峯・晴気・粟飯原・大原・次浦・江指・千田・岩沢・鞍持・佐野らの諸氏が生まれた。
承久3(1221)年5月に起こった「承久の乱」の後、一族・原胤勝(与九郎)は下総国から信濃国に移住し、下条家に仕えた。その子・胤重は松枝合戦で戦死。甲斐に移った一族は武田氏に従い、信玄のもとで三方ヶ原の戦いにも参加。しかし、武田勝頼が滅ぶと帰農した。
(2)千葉介氏胤の次男・光氏(二郎)は、関東公方・足利氏満(1359-98)から偏諱を受けて満氏と名乗ったが、のち光氏と改名、子・常光は「原二郎」と称した。その子孫・胤重(二郎左衛門)は甲斐国に移住している。
(3)千葉介満胤の四男・胤高(孫次郎)は、原氏の名跡を継承(原胤惟養女を妻としたとされる)して原を称し、彼の子孫は千葉宗家被官として栄えていくことになる。