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中原橘次経任の「橘氏」を考える(1)  藻原 と 阿智村 浪合 を繋ぐ線

2021-01-30 | 九里【只今の状況・まとめ】

昨日の記事で「経任は橘次となっており、予想では「三崎庄【橘樹荘】」と関係ができたためと思われ、佐竹義政の婿となった「片岡経春」の弟分として入ったのではないかと思われる。」と書いた。
が、片岡という地名が鹿嶋神社にあった事と、藻原に橘樹神社(橘木神社)があった事等もどこか関係しているはずである。
この周辺は再考しよう‥‥と思う。



まずこの系図では賢清=中原久経と思われる。
中原信房が道賢という法名であったが、この『賢清』も法名であった可能性もある。
久経…源義朝の妻であった藤原氏秀郷流波多野義通の妹が母である。(源朝長を産んでいる。義朝と別れた後に中原某の妻となっている。そして久経を産む。)

この系図では景経=政経=政恒法師と思われる。
政経…一条家の家司。1199年に三左衛門事件の三人の首謀者の一人として捕らえられる。が、後は釈放されたようである。近江国伊香郡に逼塞していたようである。)この系図では景経かその周辺の人物と思われる。景経と同時期に同じく近江国伊香郡にいた。

関東御家人として「近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師」が突如1246年に文書に登場する。
まさに同じ時期、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。親子かもしれない?
景経は判官と成れるように勘解由長官藤原経光に後ろ盾となってもらっている。(1244年)

経任…橘次であり系図の註に「改橘氏」とある。
この人が、今日の主人公である。

経任の「橘氏」 どこの橘氏とつながったのか。そこを考えたい。
①藤原巨勢麻呂の息黒麻呂の妻の系との関係の橘諸兄から続く橘氏
②藻原の橘樹神社 常忍の文書に藻原に戻り‥‥というような表現があったためだ。(未確認だが、日蓮宗の関係文書であったと思う)
③片岡氏が三崎庄(橘庄)の地頭として活躍している時代に、養子として入った。(上総海上氏の片岡氏)橘庄の地頭であったため橘氏を名乗っていたかもしれない。
④橘直幹の裔の橘氏




橘樹(橘木)神社 橘木庄(安楽寿院領・茂原市) 

https://jinjamemo.com/archives/post-14337.html#toc8

弟橘姫命との関連で氏とは関係のない「橘」なのかもしれない。

しかし、この藻原という土地は藤原巨勢麻呂の息黒麻呂が開拓した土地(牧)で有る。
其の妻の一人は「県犬養氏」であり、橘氏と関係が深い。
元明天皇から橘氏を賜った県犬養三千代や、県犬養広刀自(聖武天皇の夫人)がその一族から出ている。

県犬養三千代は、はじめ美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生んで、其の後、藤原不比等に嫁いでいる。

藤原黒麻呂は同時代に二人いて、巨勢麻呂の長男も黒麻呂、乙麻呂の長男も黒麻呂であった。乙麻呂とは巨勢麻呂の兄である。
込み入っているので略して書くが、その息たち両黒麻呂の妻は、其々橘氏関係であったのだ。 
巨勢麻呂の息の黒麻呂は県犬養氏・乙麻呂の息の方の黒麻呂(是公)の妻は橘佐為の娘であった。
前出しているように其の橘佐為の母親が縣犬養三千代なのだ。
藤原黒麻呂(巨勢麻呂の息の方)の息春継の母が縣犬養氏である。

春継の系が常陸大目坂上盛という人物の娘を妻にもらい、しっかりと土着したようなのである。
藤原春継の孫が菅根、その菅根の息に元方がおり、やはり妻が『橘良殖の娘』である。
元方と橘良殖の娘から生まれたのが藤原 陳忠(ふじわら の のぶただ)で、神坂峠に近い長野県阿智村園原と関係がある。

この地名は聞いたばかりで、阿知村に浪合があったではないか!!!
ここで、原氏(千葉氏一流の)とのつながりがわかった。このようなピンポイントでの偶然はないと思う。


【藤原陳忠】に関しては、とても面白い話がwikipediaに紹介されていたので、そのままここに貼っておく。

今昔物語集 巻28
「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」

信濃守の任期を終え京へ帰還する陳忠は、信濃・美濃国境の神坂峠を過ぎるとき、乗っている馬が橋を踏み外し、馬ごと深い谷へ転落した。随行者たちが谷を見下ろすと、とても生存しているようには思われなかった。しかし、谷底から陳忠の「かごに縄をつけて降ろせ」との声が聞こえ、かごを降ろし、引き上げてみるとかごには陳忠ではなくヒラタケが満載されていた。再度かごを降ろし、引き上げると今度こそ陳忠がかごに乗っていたが、片手に一杯のヒラタケを掴んでいる。随行者たちが安心し、かつ呆れていると、陳忠は「転落途中に木に引っかかってみれば、すぐそばにヒラタケがたくさん生えているではないか。宝の山に入って手ぶらで出てくるのは悔やみきれない。『受領は倒るるところに土をもつかめ』と言うではないか。」と言い放った。

浪合のことや周辺を書いた記事 ↓
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bd935e99c1e3f50fbae745bf4c7e4e8b

この藤原家が原氏とどこかで通じていているはずである。
婚姻関係かも知れないが、これからその接点を調べていきたい。

藤原氏と原氏、共に【阿智村・浪合】に関係している。

===*===

藻原という地にある神社も、藤原黒麻呂(巨勢麻呂の息)が創建したのだろうか?
もしもそうならば、藻原の神社と原氏とも関係しているのかもしれない。

寛平(かんぴょう)二年(八九〇)八月の藤原菅根
以下に施入に始まる藻原庄(もばらのしょう)(興福寺領・茂原市)以下、橘木庄(安楽寿院領・茂原市)、玉崎庄(上西門院領・一宮町)、千田庄(皇嘉門院領・多古町)などを除いては、鎌倉以降の中世的荘園とされている。事実、『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)三月十二日条に、下総国内の荘園として一四庄が記されているが、九十九里沿岸では三崎庄(銚子市・海上町・飯岡町)と匝瑳南庄(八日市場市・光町・野栄町)の二庄のみで、臨海低地の本格的開発は中世後期以降であるものと考えられる。


===*===

これ以下は片岡氏に関係する橘庄のことである。

〔関東下知状写〕橘庄〈号東庄〉粟野郷内田肆拾□三崎庄〈号海上庄〉本庄内田陸拾町、浜〈長塚〉地頭職事、右任亡父左衛門尉平盛胤〈正安元年七月日〉連券状〈任此状□□一期之後可配分之由載之〉幷同自筆状、守先例可令領掌之状、依仰下知状如件、・・・

===*===

④の橘直幹も橘佐為からの系と成る。














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4 コメント

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Unknown (木方)
2021-02-03 10:26:38
橘との文字に惹かれて覗いてみました。
今日が旧暦の12/22みたいで午でもあるんでちょっと入れておきますね。聖徳太子の周りの関係に個人的に興味がありまして。文献で確認は出来にくい時代ですし、情報も確証ある物もないでしょうけどちょっと遡ったか可能性として興味持って頂けるとありがたいです。

ハセ、オバセ、ハツセなどが出てくるなんかワクワクしてしまうんですよね。そんな中で見つけた方が厩戸皇子次男のお母様が膳って文字が付くのと奥様が富付くのとその子が葛城とタジっぽい文字で気になってます。

穴穂・孔王も聖徳太子の周りに出てくるのですが、今一番気になるのが次男のファミリーです。

私もどうも弟橘姫に絡む所に行く事になるんですけど川崎の方の橘樹には久々に去年行って来れました。
掘立柱の造りなのか柱の抜き取りなのか?の決まった工程があるようでしたし、遺跡から違う地との関連も出て来ることもありそうです。どんどん研究が進むと一般人も楽しめて、更に自分の理解にも繋がってくるように思います。
当時は木簡、水分ないと木は残っていないので文字としての情報は入りにくいとは思いますが色んな方が興味持つ事でその方だけが気付く事がいっぱい蓄積されてくると古代まで遡れそうにも思います。
返信する
気になる「弟橘姫」様 (kunorikunori)
2021-02-03 13:44:34
木方様

私も「弟橘姫」様が気になります。
橘樹神社(藻原)はこの方が祭神の中におりましたので、そのために名前に「橘」が付いたのかもしれませんが、その他にもあちらこちらで、眼にします。

『寒田神社(さむたじんじゃ)は、神奈川県足柄上郡松田町松田惣領に鎮座する神社です。』とあり、ココにもいらっしゃいます。
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Unknown (木方)
2021-02-04 09:24:29
立春過ぎましたね。本年もよろしくお願いします。
弟橘姫はメジャーじゃないけど実はビックネームです。けど、その周りの女性も気になっています。多分こちらにも関わりそうに思います。弟がいたら兄がいるのか?妹背って言葉もあるし、血縁+αで継承もありそうに感じます。男性はそれが出来るけど女性は自子がいたりしたら普通はそういかない。そこも難しいように感じますが実際出来る方が文化も風習も繋ぐのでありのままを知りたいです。今神さん調べていても乳母が出てきてびっくりですけどどうも旧石器からの継承があるように感じてますよ。弥生と旧石器は荒さはどちらも現代から考えるとあるんですけど、生死や子孫繁栄が目的の表面的な荒さは今まさに必要です。ダメはダメ。当時の道具も祈りも人間同士を傷つける事なんて考えてない時代だから出来たのかもしれないですけど。お金も名誉も死を迎えたら持っていけないし、子供にも薬に思っても毒にもなるので私欲や家欲さえ無くなれば日本人は出来やすいはず。

足柄も文化の境界とか聞いた事ありそれからかなり気になっています。で金太郎絡みや源氏などでも近江にも繋がりそうなエリアですね。松田というのも寒が付く所も好きですが、千葉で寒川あるってびっくりした事ありますね。弟橘さんと寒もちょっと調べたくなりますよ。
今また古墳にハマり始めたので足柄の周りの古墳の出土品で物によるネットワークを探ってみたいです。
凄いありがたい情報ありがとうございます。
返信する
こちらこそ、お願いいたします。 (kunorikunori)
2021-02-04 19:16:08
木方様

こちらこそ、よろしくお願いいたします。
節目から、新たなことを始めましたが、ただいま苦戦中です。
身の丈に合っていない。。。でも、ちょっと辛抱して続けてみようと思います。笑
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