九里 【九里】を探して三千里

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大田氏 多氏 久利との関り

2022-10-01 | 古代からのつながり

鬼ものがたり 鬼と鉄の伝承 より

「太田神社の創建は中臣太田連で天児屋根命を祭祀するが、他に大物主の息子の大田田根子を祭祀した記録が存することなどが注目される。ここで仮説として、太田の地は多氏一族である大田田根子伝承と無縁ではないことを考察したい。」

 

「この系譜の大物主神は三輪山の神であり、意富多多泥古(大田田根子)は、記・紀よれば三輪山の神の祭祀者だが、大忌としての神八井耳命も三輸山の祭祀者である。」

 

http://fujinoyama.blogspot.com/2018/08/fuji-wanibe.html

 

不思議なのだが、『大田』を調べると、邇摩郡の大田、久利を思い出す。

川合物部神社が近くにあり、隣に鬼村もある。

中原経久(蓮忍入道)が地頭として登場したのが、丹波国河守荘なのだが、鬼で有名なところと思う。

 

【物部神社】に関しては以下のような記載がある。

https://www.mononobe-jinja.jp/about/

御祭神宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命(にぎはやひのみこと)は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命(みかしきやひめみのみこと)を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。

神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)

その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。

次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源) 

 

https://cultural-experience.blogspot.com/2015/10/blog-post_23.html

更に久利郷の中にある【山辺八代姫命神社】

社伝によれば、奈良末期(783年)大和国宇多郡山辺笹幡宮(奈良県宇陀市にある元伊勢の篠畑神社)より勧請された古社であると伝えられています。

その後、鎌倉後期に京都の石清水八幡宮から八幡大神を勧請して相殿として祀ったとされ、久利氏や毛利氏の篤い尊崇を集めたとされます。

なお、古くは久利町と大屋町の境にある鬼村八代谷にあったとも伝えられ、そこから氏宮の地に遷り、さらに現在地に遷座したとも云われており、今でも社殿跡が残っているとされています。

また、旧鎮座地である八代谷で祭祀用の須恵器の壷が発掘されたとされることから、創祀はかなり古いという説もあるようです。

 

私の気づき☆此処だけ読んでいると、石見国邇摩郡久利氏の山辺八代姫命神社と大和国宇陀郡の篠畑神社が関係があり、九里氏との共通項(大和宇陀)が見えてくる。

邇摩では久利、大和では九里となったか?

 

https://genbu.net/data/iwami/yamabe2_title.htm

山辺八代姫命と申すのは、天照大神の別名で、今から約千二百年前 の延暦二年(七八三年)大和国宇多郡笹幡宮(現存している)より勧 請古くは延喜式内社として、國幣 を賜わり、久利郷八ケ村総氏神 として栄え、又相殿八幡宮は約七 百年前の建仁二年(一二〇二年)京都 の石清水八幡宮より勧請、久利氏、 毛利氏の尊崇あつく、また延命 長寿の神としての信仰があり、旧 社領の六石五斗は毛利氏の寄進で あった。

久利郷八ヶ村は後で調べようと思う。

 

 

更に【栗村】という場所が丹波国にあることを知ったので、そちらをコピペさせていただき、ここに留めておこうと思う。(丹後の地名様HP)

栗村 https://tangonotimei.com/ikrg/kuri.html

古代の栗村郷で、「和名抄」丹波国何鹿郡十六郷の1つ。郷域は現在の綾部市栗町を中心とした地域に比定される。中世の栗村荘は当郷名を継承したものであろうという。
中世は栗村荘で、平安末期~戦国期に見える荘園。寿永3年(1184)8月26日の後白河法皇院宣に「丹波国栗村東西」とあるのが初見。東・西に分かれていたことが知られる。

嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院御領目録に「一、室町院御領 丹波新院御分 栗村庄〈東方 光輔朝臣後室 御年貢五千疋 西方 新中納言局 御年貢二千五百疋〉」とあるという。
建武4年(1337)6月日の片山高親軍忠状によれば5月26日に「栗村河原」て北朝方仁木頼章の軍が南朝と戦って、同年7月25日には当荘内の楞厳寺が戦火のため焼失した。
室町期に入って応永6年(1399)12月23日付の大報恩寺寺領目録に「丹波国栗村庄内〈寺方〉」、同18年5月2日付大報恩寺寺領目録案にも「丹波国栗村圧〈寺方〉」と見え、当荘内に大報恩寺領があったことがわかる。

栗村、往古ヨリ東栗村ト云、小貝村・石原村・長砂村・三宅村・福垣村・館村・今田村・大畠村此八ケ村ヲ西栗村ト云フ、東西九ケ村合セテ栗村郷ト云フ、

 

肥前国松浦郡久利郷(唐津市久里)。
兵庫県神崎郡大河内町
宮津市栗田(式内社・久理陀神社)とか渡来人多い近江には栗太郡

 

皇室の対立に巻き込まれた荘園 ●栗村荘の変遷
犀川が由良川に合流するあたり、綾部ではもっとも広大な沖積地に栗村荘があった。古代の栗村郷に立てられた荘園である。平安末期には崇徳院領であり、領家は後白河法皇の近臣藤原光能であった。光能は蔵人頭から参議に上ったが、治承三年(一一七九)官を解かれ(平家追討の院宣を書いたためという)、のちに還任したが、源平争乱さなかの寿永二年(一一八三)五二歳で死亡した。
文治二年(一一八六)二月、光能の後室比丘尼阿光は使者を関東に送り、相伝の家領栗村荘が武士のため押妨されたと訴えた。前年に源頼朝が兵粮米徴収の権限を獲得したことにより公家側から頻発した苦情のひとつであろう。幕府からは元のごとく領家進止に従うべしとの下文がだされている(『吾妻鏡』)。承久の乱(一二二一)の発端となった城南宮での仏事の警護に加わった武士のなかに「栗村左衛門尉」の名がみえる。おそらく栗村荘から駆けつけた武士であろう。これらの武士は所領を奪われたから、このとき栗村荘にも新補地頭が設置されたものと思われる。
その後、この荘園は安嘉門院(後堀河天皇の姉邦子)から亀山上皇、昭慶門院(亀山天皇皇女)へと伝領された。さらに嘉元四・徳治元年(一三〇六)には後伏見天皇領となったが、その時の「室町院御領目録」には次のように記されている。
 丹波新院御分栗村荘
 東方 光輔朝臣後室御年貢五千疋
 西方 新中納言  御年貢二千五百疋
荘が東西に分割され、東方の領家は先の藤原光能の曾孫光輔に受け継がれているが、西方は新中納言(吉田定房)となっている。その頃、在地の支配に当たった武士の名が、西方(後の西栗村か)の中央部に祀られている赤国神社の「文の鳥」に「正和三(一三一四)甲寅九八日 下司源光高」と記されている。
さて、荘の伝領の経過をみると、その背景に当時の皇室領をめぐる激しい対立関係が浮かびあがる。いわゆる大覚寺統対持明院統、さらには持明院統内の対立である。後伏見天皇は持明院統、領家のひとり吉田定房は大覚寺統の後醍醐天皇の側近である。定房は、北畠親房らとともに「後の三房」と謳われ、徳治元年の皇統問題では特使として鎌倉に下向した人物である。しかし、元弘の変(一三三一)は是房の密告で始まったといわれ、建武政権分裂後は北朝に出仕した。定房は建武四年(一三三七)七月に突如出奔、吉野宮へ入った。所領はむろん尊氏方に接収されたであろう。
その年、丹波・丹後では尊氏派と南朝方の合戦が随所で起こっていた。その主なものは栗村・土師・加悦・岡田・和久などである。和知荘の片山一族は、前年来京都・越前などに出陣していたが、五月の栗村河原の合戦では若党や旗差が負傷し、土師河原では一人が討死している(片山家文書)。
中央政界と在地武士の動きは直結しないが、密接な繋がりを持つことも確かである。
(『図説 福知山綾部の歴史』)

 

楞厳寺という名も見たことがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9E%E5%8E%B3%E5%AF%BA_(%E7%B6%BE%E9%83%A8%E5%B8%82)

 

https://tangonotimei.com/amata/ooro.html

鹿島神社(奥谷)
桐村谷は、応永27年7月20日付の足利義持御判御教書に、天寧寺域の西境として「限西師殿桐村谷之本屋敷」と見えている(天寧寺文書)ところ。鎌倉末期大中臣那珂経久佐々岐荘金山郷の地頭として入部し、金山を称し、その一族が桐村に住して桐村を姓としたという。戦国期桐村氏は織田信長に付き、武田信玄と結ぶ本家金山氏を滅ぼし、桐村甚左衛門は天田郡から何鹿郡へも勢力を伸ばしたという。
八幡神社の脇から奥に桐村氏の居館跡があり、その下に常陸国から勧請したと推定される鹿島神社がある。

 

大中臣氏、鹿島神社、那珂経久 ・・・・ 片岡経久  う~~ん。


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