【物部神社】安濃郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%AE%B6%E5%BF%A0
社家については、景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという[3]。戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
安濃郡とは、石見国にあった【あのぐん】のことと思われる。
『郡名は伊勢国安濃(あのう)郡の人、安濃宿禰の末裔が移住したことに因む(『三代実録』)。 』wikipedia
川合長田公、本によっては「長田川合公」となっていて、葛城の長田、または伊賀国伊賀郡の長田からきた名前ではないかという事である。(島根縣史)
物部出自の起原は此氏の一部がその部民で神亀碑文中の他田公、その孫物部公は、長田川合君の同族・・・とある。
金井沢碑に行きつくとは不思議である。
多胡氏と大中臣氏と関係がありそうだと思っていたが、金井沢碑にも??
https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/04.html
この辺りの事跡と石見国が繋がってくるとすると、源頼信(石見国国司であったことがある)からのつながりが感じられる。
頼信から6代目(頼信もカウントして)に義賢がいる。
多胡庄( 源義賢(義仲の父))が噴火の跡の復興事業を任されていた、そうである。
金子 家忠(かねこ いえただ)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の武蔵国入間郡の武将である。武蔵七党村山党・金子氏の一族。父は金子家範。兄弟に金子親範がいる。(1138年生ー1216年没)
その金子氏の系図を見ていくと、山口氏にも通じている。
更に山口家継の兄に大井家綱という人物がいる。(大井五郎大夫家綱)