せっかく「乾太蔵人」と自己決定し書いていたのだが、
「隠岐」の可能性がアップしてきてしまい、その理由を書いておこうと思う。
何故か、それは、佐々木流隠岐氏に後藤氏とのつながりがあったからである。
後藤氏と中原氏は東国で鎌倉時代におなじ一条家の家司であった。
その後藤・中原・小野の三人が「三左衛門事件」を起こす。
以下はブログ「佐々木哲学校」より http://blog.sasakitoru.com/200504/article_7.html
「この嘉元の乱では、時清の甥後藤顕清(信濃二郎左衛門尉)も討死にしています。顕清の父六波羅評定衆後藤基顕(信濃守)は時清の実弟で、六波羅評定衆後藤基政の養子となっていました。後藤氏は秀郷流藤原氏で血筋は外様御家人であったが、吏僚系御家人としての経歴をもち、養父基政(壱岐守)は引付衆・六波羅評定衆を歴任、養祖父基綱(判官・佐渡守・玄蕃頭)は恩沢奉行・評定衆・引付衆を歴任しています。佐々木泰清が六波羅評定衆に列していたときに、子息基顕を同僚後藤基政の養子にしたのでしょう。」
この時清は隠岐時清で、佐々木泰清の息である。母は大井朝光の娘。
これだけ後藤氏と隠岐氏が密接につながっていると、後藤氏と近い関係を持つ中原氏とも繋がってくることとなるのではないだろうか。(三善・野本・斎藤・松浪・・・)
このつながり、見逃せない!…という事で「乾太蔵人」から「隠岐太蔵人」へ気持ちが移ってきている。
ただし、泰清から始まっている隠岐氏は「隠岐次郎」なのである。
私が探しているのは「隠岐太郎」!
隠岐太郎政義も、泰清と同時代に生きていて、共に東国武士であるはず。(途中父に無断で出家し、絶縁されている。真願・心願)
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近江 蒲生下郡本郷 梶取屋敷 が元は誰の土地であったのか…という事なのだが、
代々相伝されてきた「おおもと」の持ち主のことなのか…?
その後何度か変わり、直前が…という事なのか??
その元の名には九里とは書かれておらず「源為起」か「源為乾」か。
源なる隠岐、源なる乾、どちらもあり得ると思う。
佐々木(隠岐)政義に関するエピソードを見つけたのでご紹介したい。
徒然草・第177段
◇鎌倉中書王にて御鞠ありけるに
http://tsurezure.choice8989.info/main/tsurezure176.html
宗尊親王(むねたかしんのう・鎌倉幕府6代将軍)のお住まいで蹴鞠があったときのこと。
雨が降った後でまだ庭の土が乾いていなかったので、どうしたものかと話し合った際、佐々木政義(ささきまさよし・鎌倉幕府の御家人)が「おがくず」を車いっぱいに積んで大量に持って来ていたので、庭中に撒いて、ぬかるみの心配はなくなった。
「こういう事態を予期して、おがくずを備蓄して準備しておくとは、なんともありがたいことだ」と人たちは感心し合ったそうだ。
この話をある者が吉田中納言(よしだのちゅうなごん・藤原定資か?)に語ったところ、
「乾いた砂を準備していなかったのか」とおっしゃったので、その人は恥ずかしく感じた。
素晴らしいと感心したおがくずは、確かに品もないし、庭に撒くと違和感がある。庭の管理者が乾いた砂を準備しておくのは、昔からの慣例だということである。
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さらに淡海温故録のなかにも京極氏と隠岐修理亮のことが書かれていた。内容はよくわからなかったが、隠岐氏から駒井氏が出ているようである。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%BE%8C%E8%97%A4/1
「京極六人衆として、多賀・大津・若宮・黒田・加賀・隠岐ら諸氏の名が知られる 。」
と、武家家伝浅井氏にも載っている。同じ系の隠岐氏なのだろうか。。。