『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証 (上) 佐々木紀一 著
この論文の中にはっきりと「隠岐太郎国時」の息に「隠岐太郎三郎国方」がいることが書かれていた。
国方=光賢=光包
「足利尊氏・直義下」に 光賢
下をクリックすると以下のような部分の系図が出てくる。
船木 (土岐、隠岐)
頼重 (孫三郎、右近將監)
出典:寛政重脩諸家譜・文化9年
船木
頼春 (孫三郎、左近藏人、左近將監)
土岐 (船木)
光賢 (太郎三郎、元快)
https://abrj.web.fc2.com/0006/funakiyorishige-yoriharu-tokimitsuken.html
土岐氏であり、隠岐氏であり、船木氏である。
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舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)は、その後裔である。(日本通信百科事典)
近江国で九里が関わっていた「舟木庄」は1352年(文和元年)までは土岐(舟木)頼夏が引き籠っていた場所であった!
その翌年に頼夏と頼尚はともに美濃国の土岐庄に移り住んだ。
頼尚は清原の養子婿であった。が、解官し、本姓に戻した。舟木と称した。
母は高階氏。(高階は「たかがい」とも読めるそうで「鷹飼」に関係があると思う!)
頼尚の嫡男は正尚。
1363年(貞治二年)勢州一志郡堀内、属多芸御所幕下
多芸御所 ↓
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%8A%B8%E5%BE%A1%E6%89%80-180096
近江国に土岐氏も住んでいたことの証!
源行真申詞記で書いていたことが、だんだんと解明されてくるかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%BA%90%E8%A1%8C%E7%9C%9F%E7%94%B3%E8%A9%9E
すぐ上の文書の後ろから6行目に「興定三郎」とある。
論文・著書などでは「興定氏」となっていたのだが「隠岐 定三郎」という可能性もあるのではないだろうか?
で、友員の郎党として活躍している人物であったようである。
友員のことは、藤原頼長までも震え上がらせているという事は、頼長の知人であった可能性もあるのだ。(友員は崇徳院に仕え、成勝寺領伊庭庄の下司を勤めていた人物なのである。)
土岐氏や(…興氏が隠岐氏ならば)清原氏が郎党として配下にいるという「友員」。
京の源頼政の家近くで殺されていることからも、土岐氏にちかい人物であったと思われるのだ。
以上は、伊庭庄であった1142年(康治元年二月二十二日)の事件である。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/6c4c1ad1e14d91c109ce10e68b7bcb07