崇峻天皇より始まる系図と天武天皇から始まる系図は、何処かに接点があり、何かヒントをくれているものと思う。
今回は、漢皇子が「高向王の息」=「天武天皇」との説を信じてみる。
この仮説を信じるならば、天武天皇は用明天皇の曾孫、田目皇子の孫、となる。
用明天皇と崇峻天皇はともに欽明天皇の息である。
田目皇子は穴穂部間人皇女を娶ることになり、彼女は高向王を産む。
この穴穂部間人皇女もまた欽明天皇の娘で、崇峻天皇のすぐ上の姉にあたる。
穴穂部間人皇女と崇峻天皇は同じ母親(蘇我小姉君=蘇我稲目の娘)
なぜ田目皇子は豊浦皇子ともよばれていたのか…
推古天皇が過ごしていたともいわれる【豊浦宮】が関係しているのではないだろうか?
此の推古天皇となった女性もまた、欽明天皇の娘であり、崇峻天皇から見ると少し離れた上の姉であったかもしれない。
崇峻天皇が暗殺(592年)されてから603年迄、推古天皇(額田部王)に使われていた宮である。
その豊浦(宮)で田目皇子は育ったのではないかと思う。
田目皇子は、実は崇峻天皇の息で、推古天皇はこの皇子を匿うことにしたのではないだろうか?
なぜならば、推古天皇の二人の息のうち
「竹田皇子」は丁未の乱で亡くなった可能性、
「尾張皇子」は丁未の乱にも記載がなく、それ以前に病気か何かで活動できない状態、もしくは亡くなっていたと思われるのだ。
新たに皇子を育てる事の必要性があったのではないだろうか?
さらに聖徳太子が蜂子皇子を匿ったとの伝承があるように、崇峻天皇のこどもたちは、系図上では追えないように作為的にバラバラと別な場所にはめ込まれたような気がしているのである。
そこで「豊浦皇子」「長谷王」「蜂子(波知古)皇子」「錦代王」の系図上の場所ではなく、「存在していた」ということが重要なのではないかと思っている。
用明天皇の第一子として系図に残された「田目皇子=豊浦皇子」
聖徳太子の第二子とも言われている「長谷王」
そして、長谷王のこどもとなっている「波知乃古」「錦代王」である。
長谷王は佐富皇女を娶る。
その佐富女王は高向王の姉か妹という事であるが、ココは系図上のゆがみを解消するためのつながりのようにも思えるのである。
私の勝手な想像では、田目皇子と長谷王は同一人物で、崇峻天皇の第一子「定世親王」である、となる。
佐富王女の兄が高向王であり、息が漢皇子で天武天皇となる。
つまり、崇峻天皇ー長谷王(田目皇子)ー高向王ー天武天皇となるのではないだろうか?
何処を探しても見つからない「定世親王」は、実は「長谷王」でありかつ「田目皇子」なのではないか?と。
暗殺された天皇のこどもたちを守るために名前を変更し、系図も分解されて隠されていたのではないだろうか?
右が崇峻天皇のいた倉梯宮、 左が推古天皇がいた豊浦宮である。
下記の推古天皇の記事を読むと、邪魔であると思った人物を誅殺しているという怖ろしい面も持っている女帝である。
彼女は異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の死後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。
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田目皇子は聖徳太子の兄という位置づけであったが、
田目皇子の本当の父は「用明天皇ではない」のではないだろうか?という疑問と、
江州中原系図の崇峻天皇と近江国御家人井口中原系図の天武天皇とつながるのではないだろうか?
という処から考えてみた。
上記はありえない仮想かもしれないが、一応想像してみると
570年あたりに生まれた田目皇子、592年には崇峻天皇の暗殺がある。
定世親王は崇峻天皇の皇子であることを隠すため田目皇子となる。
田目皇子は「豊浦宮」で、推古天皇が預かることになる。
推古天皇の娘もまた【田眼皇女】として共に育ったのかもしれない。
という結論に達したのである。
当方はいい加減にしろ!と言う位酷暑が続いております。
明日近江の水茎の岡をアップします。九里信隆の築城とか。
万葉集の地であると共に、新古今和歌集にも歌われております。
近江八幡と言う事ですが、行っておりません。残念ですね😓
それは楽しみです!!
九里が滅亡したといわれる場所でもありますが、もともとは景勝地だったようですね。
推古・聖徳時代や天智天皇の時代のことに想いを馳せることができる場所と思います。
記事アップ、心待ちにしております~~♪