以下は、私の想像も混じっているのだが…
小辨は、藤原令尹の娘ではないだろうか?
そして、重経=素意で、母親は大中臣輔親の娘のようである。
そして、小辨が平経方(仲平?)に嫁いだ…として‥同じ祐子内親王家に出仕していたのだろうと思う。
更に藤原重経に嫁いだ一宮紀伊は、夫の出家のためだろうか、藤原秀遠に嫁ぎ1082年に遠義を産んだのではないだろうか?
彼女は1113年まで活動の様子が見えるそうである。
仲平とはどのような意味なのだろう。
仲平とは、ひょっとすると「藤原仲尹」「藤原中尹」かも知れない。
もしも祐子内親王紀伊が藤原秀遠に嫁いでいたならば、そして、祐子内親王紀伊の父が平経方がであったならば…
平経方は佐々木氏の祖であり、佐々貴宮の神主職も勤めていた人物となる。(1053年ー1115年)
経方の母は後冷泉院女房綾御方であり、父は義経(初名章経)(1021年ー1082年)
更に、祐子内親王紀伊の兄弟たちが季定(為俊)・行定・行実・家行・行範と成る。(古代氏族系譜集成 宝賀寿男)
と成ると、ぐっと佐々木氏と藤原秀郷流が近くなる。
佐々木哲学校の記事では
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_15.html
「沙々貴神社所蔵佐々木系図では、経方の妹を歌人とする。年代的にも紀伊は経方の妹か妻と考えられる。」とある。
どれが真実なのかは私にはわからないが、佐々木氏と藤原秀郷流波多野氏の距離がグッと縮まったと思う。