波多野氏を調べている。
藤原波多野義通の妹が中原久経の母であった。
その周辺なのだが、義通の母は「藤原師綱の娘」であるという。
そこで、藤原師綱を調べてみたのだ。
因みに「中原師綱」もいるのだが、年代的には藤原師綱のようである。
更に藤原師綱の言う名前も二人いる。一名は平安時代、一名は鎌倉時代である。
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藤原義通の母である藤原師綱の娘。
藤原師綱という人物は奥州に深く関係する。
【鎮守府将軍】であった。
wikipediaでは「康治元年(1142年)の陸奥守在任時においては、同国を実効支配する奥州藤原氏の藤原基衡に対して強硬姿勢で臨み、朝廷の権威を高揚させたとして名声を得た。 」とある。
その時の様子が「藤原基衡」のwikipediaに書かれていた。
「藤原師綱との諍い
康治元年(1142年)、藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」(『古事談』)という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春、または季治)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生する。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季春(季治)は師綱の元に出頭し、審議の結果処刑された。基衡は師綱に砂金一万両献上し、季春(季治)の助命を誓願するが、師綱はこれを拒否したという。」
潔癖な藤原師綱である。
この人物が見込んだ(自分の娘の婿に)のが「藤原遠義」(波多野遠義)であったわけである。
義通の母が藤原師綱の娘であることは、祖父が【鎮守府将軍】であったという事で、大きく義通にも影響したのでは、と思う。
妹も同じ母親とするならば、源義朝に嫁いだ際に正室になるであろうとの期待があっても不思議はなかったであろう。
それが、藤原季範の娘が正室となったため、義通は失望して義朝から気持ちが離れたのだろうと思う。
さらに遡ると、義通の父といわれている遠義の母親は「一宮紀伊 仲平の娘」だそうである。
以前記事にしていた「祐子内親王家紀伊」
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b3755c58daa21d3756535e4a45c86f6c
という事は、巨勢麻呂の藤原家の越前守藤原懐尹の娘(小弁)の娘(一宮紀伊)と秀郷流の藤原家(佐伯経範の養子の系・秀遠)が婚姻関係を結すび、藤原遠義(波多野氏)を(1082年に)産んだことになる。
藤原秀遠。
祐子内親王家紀伊の裔である、かもしれない。
「平経方」なども絡んできてくる!
素意も、近くなり、あの藤原実方もいる。
其の祐子内親王家紀伊の父は仲平‥‥の部分がまだわからない。
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本日 外はツルツルのスケートリンク。我が家の前は坂道。
豆まきも終わり、早く春になって欲しい===☆デス。
明日は立春。善き立春になって欲しい物です。元来、旧暦主義なので、明日は初春、迎春です。
拙句
北国は春が来たとも分かぬけど
(ほんの少しづつ春になります。感染者数は変わりませんが)
一宮紀伊の周辺で「仲平」さんが出てきました時に、ぜひお教えください!!
お父様が本当に仲平さんと成ると平経方は夫でしょうか。
謎に包まれた一宮紀伊、好きな和歌もありました。