波多野義通(1107年生)の妹は源義朝妻であった。そして朝長を産む。(1143年)
其の朝長は【松田殿】と呼ばれている。
何故【松田冠者】【松田殿】であったのだろう、と考えているうちに、義通の妹というのは実の妹では何代が合わないように感じ、しかも松田に居住できる条件もある事が関係するのではないかと思った。
義通とその妹は少なくとも20歳は離れているのではないだろうか?
義朝の妻となった際にすでに30歳以上とは思えないので、17歳くらいと考えると1126年。すると義通とは19歳差となる。
ありえなくもないが、、、義通の妻の妹の方が妥当である。(条件1)
次に【松田冠者・松田殿】と呼ばれるからには、そこで生まれ、過ごした時間があるはずである。
松田の義常の母は中河辺清兼娘であり(義通の妻)であるが、そこで出産し、育てるとなると、やはり姉妹であろうと思うのだ。(条件2)
たった二つの条件だが、当てはまり、清兼の娘のほうが当てはまると思う。
さらに、再嫁ぎ先の中原は、何処かというと政経の晩年の職が「近江国伊香郡の召次 案主職」であったことも含めると、
近江国中原氏となる。
その可能性は賢清の父「経賢」が久経の母の嫁ぎ先として有力候補と思われる。
そして中原太郎賢清が「中原久経」のことで、その息が景経・経任(橘次)、政経、ではないだろうか。
政経の系は、三左衛門事件のために記載がないのではないだろうか。
年代は殆どアバウトなのだが
1143年 朝長 生
1145年 久経 生
1167年 政経 生(久経22歳)
1181年 政経 所司見参
1246年 政経 鎌倉幕府 家人 伊香郡案主 (政経 79歳 ありえない? まぁ、ありえそう?)
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橘次の経任は1165年生まれとし、九里太郎経久が1185年前後生まれとなり、(そうなると片岡経久ではなくなる…彼は1175年生まれ)
五郎常忍(富木)の母は1185年生まれなので合う。
五郎の為、母が31歳の時の息となる。
上記の中河辺は、秋田に中河辺郡、岐阜にも中河辺、たまにも中河辺などあり、地名から来た名前と思われる。
比叡荘中河辺というのもある。佐藤氏の中に「河辺太郎高経」もいる。
「中」は「中原氏の意味」かもしれない。大中臣の「那珂氏の意味」も考えられる。
中原の河辺清兼。 那珂の河辺清兼。
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