googlebooksで、波多野宣時に関する情報を集めてみた。
調べようと思ったきっかけは「六波羅探題の研究」森幸夫著作の註に『佐治重家と 波多野信(宣)時は幕府が造営した閑院内裏の作所奉行人である。』とあったためである。
波多野宣時は波多野義重(1258年歿)の息であり、忠綱(経)の孫に当たり、波多野義通の曾孫である。
九里氏に当てはめると、
中原久経の母が義通(1107年生-1167年歿)の妹か義妹とすると、久経(1145年以降生ー)と忠綱が従兄弟、義重(1258年歿)と経任が同世代、九里の祖の経久と宣時が同世代となりそうである。
・・・とすると、相対的な関係からすると、1175年生まれの片岡経久は年代的に見て九里太郎経久ではないことになる。
もしかすると富木常忍の母(1185年に90歳)の弟あたりの年代か、同母の息子で常忍の兄か‥‥が妥当となってくる。
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波多野上野前司宣通とはどなたのことなのだろうか? ↓
web情報によると、
http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/ha.html#nobumiti
相模国・波多野(秦野)を拠点とした波多野一族の武士。左近将監となった波多野宣茂の子で、六波羅探題の評定衆をつとめていた。
元徳3年(元弘元、1331)8月末に後醍醐天皇が宮中を脱出して倒幕の兵を挙げると、六波羅探題は当初後醍醐が向かったとされた比叡山延暦寺を攻撃、このとき東坂本(琵琶湖西岸)に出陣した武将の中に「波多野上野前司宣通」の名がある(「太平記」「光明寺残篇」)。『太平記』によればこの戦闘で波多野の郎党十三騎が戦死している。
笠置山が陥落して後醍醐一派が捕えられると、三条公明・洞院実世の身柄を佐々木時信と共に一時預かっている。
波多野義重ー宣時―宣茂ー宣通 という系図になるようである。
この元弘元年と思うのだが、唐崎合戦で九里彦八郎が討死している。
佐々木時信・目賀田氏・伊庭氏らと共に九里も参加していたと思われる。
「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事
https://santalab.exblog.jp/20768914/
花山院師賢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%B8%AB%E8%B3%A2