波多野出雲五郎左衛門宣時
以下は、googlebooksで集めた情報である。
祇園社の南、五条橋に通ずる道路に面して北六波羅探題が存在し、付近に波多野宣時の館があった。出雲五郎左衛門尉
波多野五郎秀賴
佐治重家・宣時・佐分親清等は、出自や辿ってきた道はそれ異なるが、建長頃には大きく見れば似通った立場に属する人々である 。
彼は「波多野出雲氏」とも呼称される波多野氏で、普通は「宣時」と表記される、波多野五郎左衛門尉宣時のことである。
出雲五郎左衛門入道名は宣時、波多野義重の子で、のち、出家して道覚と号した。義重の子宣茂(重)、孫宣通は、ともに六波羅評定衆として在京している。波多野氏の本貫は相模国大住郡南波多野荘。京都に在住した武士で、浄阿弥陀佛の有力な樓越。
義重は当時の六波羅探題、即重時の被官であったことが解るのだが、のみならず重時の女を妻にしており、その間に宣時と弟時光が生まれる。更に佐治重家と同じように、六波羅探題への訴訟取次ぎ等の役等に ...
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佐治重家・波多野宣時・佐分親清
この佐分親清という名、聞いたことがある。
「高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。」朽木氏の系譜 より (佐々木哲学校)
http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html
佐治重家:重時の側近としての活動は1233年から見られる。重時の守護国である和泉国の守護代を務め、重時の子長時、時茂が六波羅探題に在任していた時期には奉行人として彼らの業務を支えた。
建長3年(1251年)には閑院内裏の作所奉行人を担当。朝廷との交渉でも手腕を振るった。
波多野宣時:六波羅探題の評定衆
佐分親清:加賀守(本佐々木の船木氏に養子として入る)若狭守護代