九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐藤公清の母(3)九里に迫る! 経範の母(公俊の母)は大江(小野)氏である。

2022-01-22 | 中原氏バラバラ情報

中原久経と共に行動した近藤七国平。

共に全国を行脚するため、喧嘩ばかりしていては任務が滞ってしまう。

この二人は、年齢差はあっても身近な存在であり、仲もよかったのではないだろうか?

 

公光の三兄弟でのほか、公光の妻が兼光の娘という事で、出産するときなど子供を引き連れて兼光の里に帰ったと考えると、当然その周囲の人々とも親しくなる。

小山・下河辺・太田・長沼・皆川・足利・結城・佐貫氏など、ともつながりはあったと思うのである。

其の証拠に?

源頼政の荘司が下河辺氏であったとすると、当然頼政の周囲には光行と脩行がいたわけで、繋がっていたと思われるのである。

大きな秀郷流の一族はかなり結束していたのかもしれない。

 

この公光の妻が兼光の娘であったことにより、そのつながりが実は大きな効果をもたらしたのではないかと…(勝手な想像)

 

何と公清の弟に、母親が大江氏(三河守大江良真(實)娘)である公停がいる。何と読めばよいのだろう。

 

三河守大江良實(真)

以下の人物の関係者か?

三河守大江定基
 三河守として国府に着任した国司の名は「続日本記」「三代実録」等に残されている。その中で平安時代の中頃(一条天皇の頃)三河守となった大江定基は国司というよりも名僧、高僧として当時の国内は勿論、宋(中国)の国にまでその名を博した人である。次にみるように平安時代の書物、或はそれ以降の書物に愛妾力(りき)寿(じゅ)とのロマンも含め、仏道精進のすえ高僧にまでなったことが書かれている有名人である。しかし、今の人達に余り知られていないのは残念なことである。

 

石見守大江良實女ともある。 

この良實(良真)は、もしかすると‥‥小野小町と関係があるあの人物では…

「系図集『尊卑分脈』によれば小野一族である小野篁息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘[1]、あるいは小野滝雄の娘[2]とする説もある。」

つまり小野篁の息という事である。

https://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/sagae/otomo.html

ココが寒河江なのである。これは小野=大江であろうと思われるのである。

 

左沢楯山城跡の宗教遺跡-(資料)

寺屋敷と巨海院巨海院は古くは柴橋落衣(寒河江市)の北、寺山の大門跡近くにあったといわれている。

落衣に接する金谷原に出羽郡司小野良実の廠庁(役所)があり、そこには良実の次女の小野小町
住んでいた。

 

===*===

つまり、小野小町と姉妹であった女性が公停・公俊の母か?

前回の記事で、公俊=経範という事ではなかっただろうか?

年代はあうのだろうか?

平為俊 
「この公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。」佐々木秀義の父季定の初名は「為俊」であり、平姓も使っていたと思われる。

佐々木季定(為俊)の息と云えば佐々木秀義が有名だが、この経範(公俊)もいた事になる。

そして、そこに小野小町の父 大江(小野)良實(良真)も関わってきたとすると、そここそが九里氏ではないか???
九里村は隋心院門跡領なのである。

 

経範:本名公俊 性佐伯」の情報を加えてみる。

 

===*===

経範は波多野の祖でもあり、佐伯姓でもあった。

波多野義通の妹とは、もしかすると本当の意味での妹であったかもしれない。

もう少し掘ってみたい。

「経」が通し字なので、何だかうれしい!


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