源義賢が歿した後に、義仲(駒王丸)を預かって養育先を探した「長井斎藤別当實盛」
なぜ中原信濃権守兼遠に預けたのだろう。親しかったのだろうか?
長井斎藤氏は越前の出という。
一方中原兼遠の父兼経は但馬国城崎の人 (筑摩県史)だそうで、信濃に【大吉祖庄】(おおきそ)という庄園があり、そこが宗像少輔領であり、その庄司に抜擢されていたのが、「中原兼経」であったのだそうである。
では、大吉祖庄を調べてみよう。
初見は文治二年(1186年)木曽郡日義村
荘園志料=『三代実録』元慶397の吉蘇村の地・平凡地名=木曽谷南部の「小木曽庄」に対し、鳥居峠を境に木祖村、日義村、木曾福島町辺、中心は日義村宮越 | |
日義村宮越に木曽義仲居館跡あり |
ひよしむら
https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/258771/www.vill.hiyoshi.nagano.jp/index.html
地図を見ると、主要な場所のどこからも遠い所のような気がする。
平安・鎌倉時代の時には冬は雪に閉ざされて、行き来もできなかったのではないだろうか?
次には、斉藤氏と中原氏の関係を見つけてみたい。