1198年にまだ生きていて、内舎人であった【中原兼経】
本当にこの人物が【中原兼遠】の父親だろうか?
1199年に頼朝が歿しているので、頼朝の晩年。
武士が任ぜられることが多くなると、その本姓と「内舎人」を略した呼称が使われる。源氏で内舎人に任ぜられた者は源内、平氏ならば平内、藤原氏は藤内、橘氏は吉内、紀氏は喜内、清原氏は清内、伴氏は伴内のごとくである。後には、実際の内舎人職や本姓に関わらず名乗られるようになった[2]。
最後の行にある名乗っているだけの例かもしれない。
年代は合っているのだろうか?
兼経が1199年の時に80歳代としても、1119年生まれ。
1139年(20歳のとき)に長男が生まれたとして、三男であった兼遠なので1141年に生まれたと仮定する。
すると14歳の時に義仲を預かった事になってしまう。ちょっと早すぎる。
兼経が預かったのだろうか?
兼経は、兄弟や親戚だった可能性はないのだろうか?
http://kozu5.travel.coocan.jp/tabi-2/13.03.12.komaoumaru.htm
ここに、良賢と兼遠は同じ年であった、と書かれており、しかも義仲を救う際には畠山重忠も関わっていたことが示唆されている。
この頁はとても面白かった!! オススメです。
【訂正】
どこかで「中原広房」は・・・、と書いたような気もするが、本の中には存在しているものの、東京大学のデータベースにも出てこないので、「大江広房」か「橘広房」が正しいと思う。
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今回【押小路家譜】を調べてみた結果、兼遠は橘以忠ではなく、「中原以忠」の裔であることが確認できた。
以忠の息 良道の註に「中山権頭兼遠等高祖父也」と記載があった!
なので、(五代の孫の意味は子孫の意味であった???)
更にどのような時代の人となるのかざっくりと系図内で比べてみると清盛の息清定あたりとなり、息の名前が清兼とあり、どなたかからか「兼」の文字をいただいているようである。
兼経・兼遠もそうなのかもしれない。九条家?
更に清定の兄の生まれが1131年であり、だいたい兼遠とも同時代であろうと思われるのだ。
という事で、中原氏のほうの以忠の裔 兼遠が正しいようである。
この系は良道の註に兼遠の名が記されているのみで、系図は良道で終っている。
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あの大江兼遠の存在は、どうなのだろう?と気になったが、深入りはせず、良道とその周辺、其の後の繋がりを探してみたい。
出てくるだろうか…マイナーそうなので心配。