改めて調べてみると、面白いことが出てくる。
1155年に義仲を預かったと思われる中原兼遠だが、預かった後も木曽にいたわけではなく、働いている。(官吏補任 永井晋編)
1150年(久安6年)ー1151年(仁平元年)
1118年(元永元年)ー1120年(保安元年)
1171年(承安元年)ー1174年(承安四年)
下記の文書 嘉応元年とあるので、1169年のこととなる。
この表を見ると、兼遠は、1000年位に生まれた人物のように思える。
源義仲が出陣したのを見届けて亡くなったそうである。治承五年(1181年)
1174年まで務めていたことがわかる。
【皇后宮大属】
卜部兼遠もいるが1300年代の人物。1364年に見える。が…
下記は1199年の卜部兼直(父は卜部兼貞)信濃権守
兼遠の父は「右馬少九兼経」 九男かもしれない。とすれば、兼遠の叔父あたりに信濃権守がいたかもしれない。
更に1165年(長寛三年)の記載も見つけた。山槐記 藤原(中山)忠親(1130~1195)の日記。
1232年(貞永元年)に登場する 卜部兼遠は別人なので、平安時代の兼遠は中原兼遠の可能性はあると思う。
大江を名乗っていた兼遠は、中原兼遠のことではないかと思う。(間違っているかもしれないが…)
つまり、始まりは 【大江兼遠】で、途中から【中原兼遠】となったのではないだろうか?
その後、信濃権守の中原氏のなかに「卜部」を称する人が出てきて、何度か名乗っていた?など、なにか事情があったのかもしれない。
いずれにせよ、今後の兼遠の解明に期待している!