始りは九里太郎経久蓮忍 であった。
近江国湖北から鎌倉幕府のために移住したか、鎌倉以前の中原時代に上総に出たか、と思う。
なぜなら藻原には中原姓が多いと云い、また千葉常長の母の天女伝説と近江国湖北余呉の天女伝説との内容が近いので、そう思われるのだ。
九里の蓮忍入道は在庁官人として因幡国にいた。
地頭となって丹波国にも居たかもしれない。
富木常忍は(日蓮上人のおかげで)因幡国より今の市川市(当時は葛飾郡?)に移住して千葉氏の被官となって頼胤などを支えていた。
蓮忍の孫が唐崎の戦いで討死。
その後近江の般童寺に入った者、熊野本宮前坊にいった者と、系が分かれていく。
近江国近江八幡にいた系ある。
和歌山系図の中の九里助泰の註に「住蒲生郡石寺 掃部助 属六角氏頼」とあり「祝」とある。
この人物が、京極・六角の分裂後に京極佐々木氏から分かれて六角氏被官となった人物ではないだろうかと思う。
(六角氏頼1326-1370年)
「祝」とは、神職の役名である。この石寺では「市」が開かれていた。
そのことが、後の九里氏の活躍に関係してくると思われる。
応永34年12月11日(1427年) 源員定書状案 日吉神社文書
源員定=九里員定であると思われる。近江愛智郡志: 巻3
この頃九里氏は「愛智川市庭」のほかにも三村庄・得珍保(とくちんのほ)などの商人や農民の管理役として問題解決他を行っていたと思われる。
ともに蓮忍から始まった「九里氏」であることには間違いなさそうである。