九里 【九里】を探して三千里

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京極佐々木氏と土岐氏の関係(2) 舟木庄の舟木氏とつながってくるのではないだろうか?

2021-01-13 | 土岐氏

舟木氏に注目していこうと思う。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/9dfae595496a10f86ca59bdcbaef6a3f



舟木頼尚 : 舟木頼重(頼直/頼真)の曾孫、頼春(頼玄/頼員)の孫、頼夏の子、政尚の父、政頼の祖父、光俊の曾祖父。戦国時代の南光坊天海(秀光/随風)は、その後裔である。(日本通信百科事典)


近江国で九里が代官として関わっていた「舟木庄」は、1352年(文和元年)までは土岐(舟木)頼夏が引き籠っていた場所であった!

その翌年に頼夏と頼尚はともに美濃国の土岐庄に移り住んだ。
頼尚は清原の養子婿であった。が、解官し、本姓に戻した。舟木と称した
母は高階氏。(高階は「たかがい」とも読めるそうで「鷹飼」に関係があると思う!)

頼尚の嫡男は正尚。
1363年(貞治二年)勢州一志郡堀内、属多芸御所幕下

多芸御所 ↓
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%8A%B8%E5%BE%A1%E6%89%80-180096


船木氏

舟木系図に

一、從五位下右近将監源頼重は、鎮守府将軍攝津守頼光十代の後胤、土岐隠岐守光貞の男、母は平貞時の女である。

少名を隠岐孫三郎と号す、是舟木の祖である。

幕紋丸の中に桔梗である。

花園院御宇、北條家執権の時、濃州、江州等において領知を賜い、且つ伊勢國守護職を命ぜられる。

後醍醐院の御宇、宣下を蒙って讃岐國高松庄に住し、諸郡を管領す。

その外、所領・諸所に在り。

頼重の弟貞親、頼貞、亦貞時女の生む所、故に北條家母方の一家である。

然りと雖も後醍醐天皇御陰謀の節、貞親の孫頼貞、頼重の男頼春以下、宣旨を蒙って、各々これに與し奉る、是れ高時の政務・正からず、且つその時を以って少恨あるのである、事露顕に及び、一族頼兼以下、高時の為に殺される。

その子孫一族なお官軍一味の志あるを以って、足利家と心を合わせ、後尊氏・遂に後醍醐院に背いて朝敵になった故、光貞の子孫土岐氏・朝敵と為るのである。

光貞の子孫舟木氏は始終義を立て宮方と為る。

就中頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。

建武三年春、尊氏卿・内意に頼夏に通じ、又同年九月、新田義貞を誅伐出来たならば、宜しく恩賞が有るだろうの旨、御教書を成さる。

その上さらに、一族宮内少輔・勧めて曰く

去る冬、朝敵叛逆の時、祖父頼重これを防ぎ、家人多く死す。

少しく君の為め忠を盡す者である。

且つ朝家衰えて武家盛んになり、則ち家運を開き難し、今朝家に背き、尊氏卿に属したなら、子孫當に繁昌するだろうと、再三之を諌む。

故に頼夏・やむを得ず之に従う。

しかしながらその誠心にあらず、故に尊氏卿・大将拝賀の時、数度病と称して供奉に及ばず。

観応二年、密に鎌倉を窺い、事を新田義興に通じ、之によってその陰謀を知る者あり、計遠其難。

翌年文和元年、頼夏・別腹の子兵庫助頼尚を美濃國土岐に移して一族土岐家に属させる。

頼尚・曾つて清原氏の養子聟と為り、其の家を嗣ぐ意思があり、故に從五位下に叙せられ、源姓を改め、清原と為す。

しかしながら故あって其の家を継がず、遂に官を解いて、本姓に復し、舟木と称す、高階氏である。

足利家・兵を摂津紀伊に発する時、頼夏父子止むを得ずして、一方の大将である。

両陣相持の際、頼夏・頼尚に謂って曰く、我今朝敵と為るも全く素意にあらず、只時難を遠ざけ、父祖の本意を達せんと欲するのみ。汝早く退き重ねて義兵を揚げよと。

頼尚・父の命に応じ、熊野を越えて、勢州多藝郡三瀬谷に赴く、勢州は先祖の所任、且つ國司・宮方であるを以ってである。

居る所・三方大河を帯び、要害の地である。

昔平家の餘衆・此に居る。

延文中、頼尚攻めて之を取る。

貞治二年、城を一志郡堀の内に構えて之に移る。

其の奮跡を譜代の家人に給し、並びに百姓を入れる、今一邑である、舟木村と号す。

此によって三瀬谷舟木村の百姓等、貢米を堀内に納める。

http://rekishkakeizu.seesaa.net/article/373267188.html



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4 コメント

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Unknown (遅生)
2021-01-13 19:33:11
濃州舟木庄は、私の所です。小学校は、舟木小学校(戦前名)。戦国時代は、ほぼ集落ごとに城がありました。国盗り物語の真っ只中です(^.^)
返信する
それは心強い援軍です。 (kunorikunori)
2021-01-13 21:01:19
遅生様

それは嬉しい情報です。笑
ご地元の方にお聞きできる!チャンスですね。

濃州の舟木とは、「舟来」と書かれた場所の事でしょうか?どのあたりになるのでしょう。
「舟来」の方は見つけました。

また、近江の舟木庄との関係は、お聞きになった事はございますでしょうか?

佐々木氏との関係とかも、お聞きおよびでしたら是非教えてください。

特に、土岐氏の中でも舟木氏・乾氏が…近江国と関係があったように思えています。

両方に同じ名前の「土地」がある。これこそ、、、、と思ってしまいます。

小さなことでも、思い出された際に教えていただけますと、うれしいです。
返信する
unknown (遅生)
2021-01-14 05:45:36
こちらでは、普通、船木と書きます。しかし合併で、(旧)船木村は消えました。Wikipedia に出ています。
6kmほど北に船木山がありますが、その辺りとの関係はわかりません。
土岐氏については、ほとんど知りません。
少し勉強してみます。
返信する
千年プロジェクトさんのページに (kunorikunori)
2021-01-14 12:47:13
遅生様

ご返答ありがとうございました。
荘園のあった場所は、千年プロジェクトさんのページに有りました。

岐阜県の地形も、面白いですね。
午後に記事にしてアップします。
ご覧いただけますと幸いです。
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