後藤家は室町時代の祐乗(永正九年没、通称四郎兵衛尉)を初代とする金工の家である。美濃彫から出て、刀剣の装身具である目貫・笄・小柄の、いわゆる三所物を得意とし、その風は御家彫と称され、市中工人の手になる町彫と区別された。
祐乗をはじめとする歴代当主ならびに一族・一門の者は、足利・織田・豊臣・徳川の諸氏や加賀前田氏などの権力者に用いられ、彼らの注文に応じて刀装具を製作することが多かった。
江戸時代の後藤家は、江戸の四郎兵衛家と京都の勘兵衛家とに二大分立して、金工のみならず大判の鋳造や分銅の製作などで幕府に重用された。
金座を開いた後藤庄三郎は当後藤家の弟子筋の家柄である。
【後藤庄三郎】
徳川幕府の金座頭人後藤庄三郎家の初代。元亀二年生る。五代後藤徳乗の養子となり、文禄二年豊臣秀吉の命により徳川家康に附属せられ、江戸に下って金銀改役となり、貨幣の鋳造に従事。のち、家康の家臣となり、金座頭人。また銀座をも支配。一方、長崎貿易等の支配にも関係した。寛永二年没。年五十五。 後藤庄三郎由緒書
この庄三郎が「大江親広」の後裔という事になっている!(広元の弟が親広になっている。。。?)