https://www.asukamura.jp/gyosei_bunkazai_shitei_1_iwaya.html
吉備姫王のお墓かもしれない【岩屋山古墳】 省略しつつ、上記のHPより
岩屋山古墳は大字越に所在する終末期古墳です。
周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、マルコ山古墳等、多くの後・終末期古墳が点在しています。
明治時代にはイギリス人のウイリアム・ゴーランドが来村し、岩屋山古墳の石室を調査して「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と『日本のドルメンと埋葬墳』の中で紹介しています。
昭和53年には史跡環境整備事業に伴う発掘調査が橿原考古学研究所によって実施されています。調査の結果、墳丘は1辺約40m、高さ約12mの2段築成の方墳で墳丘は版築で築かれており、下段テラス面には礫敷が施されていることが明らかとなりました。横穴式石室です。
岩屋山古墳でも凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されます。
排水施設については玄室内の礫敷と羨道の暗渠があります。
これは玄室内の水が床面に敷き詰められた礫を伝わって下層にある集水穴に集まり、そこからあふれ出た水が羨道の暗渠排水溝を通って石室外に排水される構造となっています。
更に羨門部の天井石には一条の溝が彫られており外から天井石に伝わった水が石室内に入ることなくこの溝の部分で遮るように工夫がこなされています。
被葬者については斉明天皇や吉備姫王等が候補として挙げられています。
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昨日の斉明天皇の狂心の渠も、この暗渠の作りかけであったなど、何かありそうである。
以下のページも行った気分になります。
https://narasakurai.jimdofree.com/%E6%98%8E%E6%97%A5%E9%A6%99%E6%9D%91/%E5%90
ゾロアスター教そのものを斉明天皇・吉備姫王の遺物に求めることはできないようであるし、
誰も使わないうちに彼女(斉明天皇)が突然没してしまったのではないか、と思われる。
祆教という唐のベールに包まれ、そのものではなかったにしても、ゾロアスターを感じられる何かが入り魅惑した可能性も感じる。(あくまでも私見)
【火の路】では、松本清張もイランに行き、その雰囲気の残っている葬儀場や遺跡を回るが、決定的な事は見つけられるままであったようだ。
ただ、彼の想像は進む。
(興味のある方は、是非本を読んでいただきたい。私は、自分の関心事の部分のみ書き留めようと思うからである。)
下巻 p.365
『筆者は両槻宮の天宮(観たかどの)の遺跡が益田岩船そのものであると考えたい。すなわち斉明帝の天宮は、現在の多武峰にあったのではなく、橿原市南妙法寺町の岩船山に造られたと推定するものである。斉明紀には「石の山丘」を作るとある。益田岩船の巨大な石の姿は、まさに当時にあっては「石の山丘」のように見えたであろう。
「宮の東の山に石を累(カサ)ねて垣とす」とある宮とは、天宮のことであろう。岩船山の東は西の貝吹山より流れた丘陵が陥没地に臨んでいる。いまはこの谷間を近鉄吉野線が通じている。この東の丘陵に石垣を作り、天宮の威儀を添えたというのだが、『文選』の西都賦に類似句があるから、事実かどうかわからない。
益田岩船は「石の天宮」であった。そのかたちはまた、丘上にあって天にそびえてみえる石の観であった。筆者はそう考える。
益田岩船の形状が壇に見えたのも当然で、すなわち霊壇と考えられたのである。天宮は霊壇でもあったのだ。これにより壇が田身・大務(タム)になり、その丘を峰といったのであろう。
したがって、田身嶺とは、今の多武峰のことではなく、岩船山をさすにちがいない。
田身嶺が、多武峰に誤られたのは、藤原鎌足の墓所からだろう。多武峰に鎌足の墓所をつくったのは、その第二子、中臣定慧(さだえ)(貞慧)が唐より帰朝してからだといわれているが、伝えられる定慧の事跡は信が置けない。
天智紀では、鎌足の遺体を山科に葬ったとしている。「家伝」(大織冠伝)もまた「葬於山階精舎」としている。・・・・』
略
『では、益田岩船は、どのような用途をもっていたのであろうか。
岩船の台上には東西に二つの方形の穴がならんでいる。天理大学の西谷真治氏の実測によると、東の穴は南北161センチ、東西155センチ、深さ126センチ。西の穴は、南北164センチ、東西152センチ、深さ130センチであるという。数字だけ並べたのでは感覚的に理解が芒乎とするが、見た眼にはとにかくだいたい同じ大きさの四角い、底も同じくらいの穴が二つ、東西の線にならび、其の中間は穴の幅(東西の長さ)よりやや狭いといったところであろう。
このような石造遺物は、今のところ、朝鮮にもなく、中国にもない。日本独特のものといえる。
これを墓とする説はとらない。終末期でも古墳ならば封土のあとがなければならないが、これがないからある。
占星台説は、天武紀に依拠した出典もあって魅力的ではあるが、占星台(天文台)としては、南、東、西が山や丘陵地によって空が遮られているので、観測の条件にはいかがかと思う。天文台ならば、四囲の天空が広闊な耳成山か香久山の頂上が適切のような気がする。薮田説では、台上の二つの穴はもと、占星台として天文観測の施設があったのだろうとの推測である。(益田岩船考)
この石の基壇上にならぶ二つの方形穴を見ていると、筆者の連想は東アジアを通りこして、イランのナクシェ・イ・ルスタムやパサルカダエにあるゾロアスター教の拝火壇に結ぶのである・・・・。』
(ナクシェ・ロスタムとも言うようだ。)
写真を見る限り、似たようなものは見当たらなかった。
さて、私個人的嗜好ではあるが、庭園にしたかったのでは?
あの穴の開いた石は、どうにかして噴水にしたかったのだけれど、中途になっていたのかもしれない。
ペルシャにおける庭園の歴史は、紀元前4000年代にさかのぼる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92
https://www.tbs.co.jp/heritage/2nd/archive/20130707/
https://worldheritage-mania.com/heritage-persian-garden/
イラン各地に残る9つの庭園をここでは「ペルシャ式庭園」としていて、紀元前6世紀のアケメネス朝の初代皇帝キュロス2世が建造した庭園がルーツとされるもの。これらは乾燥地帯であるイランにおいて、何世紀にも渡って発展してきました。
庭園はかつてイラン各地で信仰されていたゾロアスター教で重視している「空」「大地」「水」「諸空物」に基づいて設計されていて、ペルシャで発展した芸術、哲学、宗教感が表れています。そして、ペルシャ職人の庭園設計の技術力の高さを示していて、まさにエデン、地上のパラダイスの概念を具現化したもの。
各庭園は庭の敷地を「チャハルバーグ(四分庭園)」という、四分割する様式で築かれていて、4つの川と4分割された円が世界そのものを示し、これこそがエデンを表すというもの。乾燥地であるにもかかわらず、水源から水を引いてきて、それを巡回させるというシステムを作り上げ、独自の人工的な自然を築くという、さまざまな建築技術の結晶でもあるのです。