法橋昌明は大江広元の養子水谷重清(広元の妹の息)と関係があるのだろうか。
法橋昌明が伯耆国会見郡 長田荘を賜ったとあったが、
鳥取県西伯郡南部町法勝寺488 |
辺りだろうか。松江と大山の中間付近にあたる。
さて、この法橋昌明を(大江姓)と書かれたweb情報があったので、
但馬国出石郡太田荘の法橋昌明が大江氏として、但馬国養父郡水谷大社の水谷重清も大江氏であることを思い出した。
この水谷重清は大江広元の妹の息である。しかも妹の夫は藤原秀郷流の近藤氏からつながる田村氏という。藤原仲教。
さらに、其の但馬国出石郡太田荘の位置を地図で確認すると、なんと・・・
左のオレンジ丸が太田荘・右が丹波国加佐郡の河守荘である。
法橋昌明のいた太田荘と河守荘とはかなり近い!!
此処には、蓮忍入道(九里の祖 中原経久)がいたのである。
すごい!繋がってきた。
つまり、中原太郎経久は大江氏の一族として、地頭として派遣されていたのである。
さらに、因幡国法美郡の富城郷も加えてみると…
青紫色の一番左が富城郷である。
確かに鎌倉前期の中原氏は大江氏と系図も重なっており、見分けつかない。
(中原氏一族として…と書いても全く構わないのだが。)
中原親光=大江親光
中原の親厳 = 大江の親厳 なのである。
其の親厳の息カ孫あたりに 九里経久が存在していたと思われるのだ。
因みに中原祐安は飛騨守でもあったのだが、中原大江親光も飛騨守である。
更に水谷の先祖となる近藤氏は、中原久経とともに源頼朝の配下の者として行動していた近藤国平につながるのではと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%9B%BD%E5%B9%B3
近江国近江八幡の九里村が隋心院の門跡領であったことも、親厳とのつながりがあったからと思う。
そして、美作氏から本郷氏になっていった(後の矢部氏にも?)人々も同じ大江氏であり、中原氏である九里氏とつながる人々であると思う。
同族かどうかまではわからないが、そのように思っている。