九里 【九里】を探して三千里

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法橋昌明 

2022-01-03 | 太田・大田氏

今までよくわからなかった太田昌明が、判りかけてきた。

「法橋昌明」と検索してみると

伯耆会見郡長田荘も賜わり…とある。

この「太田氏」は長田荘を賜ってから「長田氏」と名のるようになる。

 

法橋昌明は「鰐淵寺」にも関係していた。

村上源氏から始まり[名和氏]につながっていく系図となっているせいか「那波系図」にも記載がある様である。私はまだ確認はできていない。

那波氏となると、大江氏とも繋がってくる。長井氏にも繋がる。

 

メモ、秀郷流、佐貫、大江流

===*===

 九里氏となる以前の富城蓮忍入道の息であった富木常忍が太田乗明の姉を娶っていた事、

太田氏の所領であった中山法華経寺の近く若宮に富木常忍の自宅もあった事、

このことから「太田乗明」は常忍に近い関係である。

 

三善氏の中にも「太田氏」があり源頼政の所領?の太田庄と関係するいう情報もあるが、

法橋昌明の線も捨てがたいと思っている。

 

今まで書いてきた記事も他のweb情報もプラスし再考したい。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%98%8C%E6%98%8E

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_3_m.pdf

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_6_m.pdf

 

太田氏(ー長田氏ー名和氏) コトバンクより

伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の豪族村上源氏。史上有名な長年(ながとし)の祖父行盛(ゆきもり)は、「名和系図」によると、村上天皇(むらかみてんのう)皇子望平親王(もちひらしんのう)11代の後胤(こういん)で、伯耆国に流され、同国長田(ながた)を賜(たまわ)って長田氏を称した。長年に至って名和荘(なわのしょう)(鳥鳥取県西伯(さいはく)郡大山(だいせん)町)に住して名和氏を称す。長年は建武(けんむ)新政府の権臣として因幡(いなば)、伯耆2国を領したが、建武政権に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って死んだ(1336)。子義高(よしたか)も2年後に戦死した。長年の孫顕興(あきおき)のとき肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)に移り、その後顕忠(あきただ)の代に同国宇土(うと)(同県宇土市)に移り(16世紀初頭)、宇土氏を称した。顕孝(あきたか)のときに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征服のために宇土を失い、諸国流浪ののち、1621年(元和7)立花(たちばな)氏の領する筑後国(ちくごのくに)柳川(福岡県柳川市)に迎えられ、約300年を送った。明治に至り、長恭(ながゆき)が名和神社宮司となり男爵を授けられた。

[田辺久子]

『平泉澄著『名和世家』(1954・日本文化研究所)』

 

中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇船上山に迎えてこれを助け,そのにより建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1∥建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。

…建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館 を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与 えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。…

 

 

太田乗明

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm

○大田乗明

  大田乗明は日蓮聖人と同じ貞応元(一二二二)年に誕生しています。富木氏と同じく千葉氏の被官だったのが大田乗明です。この主君である千葉頼胤の系統に、中山法華経寺第三世の日祐上人がいます。大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいいます。祖先について四つの説があります。

  • 乘明の祖先は源三位頼政で、丹州(丹波)五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったという。『本化別頭仏祖統紀』。
  • 太田氏の中宮太夫三善康信で、子の民部大夫康連が、備後国(広島県東部)太田荘にいたので、大田の姓を名のったとあります。康連は鎌倉問註所の執事を務め、乘明はその子であるとしています。乘明は父と同じく門註所に出仕し、左衛門尉になったとあります。また、所領は越中にあり、中山は役領といいます。
  • 中山の所領は実朝公のとき、康連が拝領した中山四郎重政の旧領であり、そのとき、富木氏の母も拝領したとあります。『境妙庵目録』(『本化聖典大辞林』上。六五二頁)。また、妻の於経(恒)は道野辺右京の孫で、日蓮聖人と従兄妹といいます。(『高祖年譜攷異』・『門葉縁起』・『御書略註』)。
  • あるいは、常州(常陸)那河郡の大守とあります。(『高祖年譜攷異』)。

この四説のなかでは、『本化聖典大辞林』(六五五頁)には、二番目の『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うのを可としています。

また、大田氏は富木氏と同じように在地性はうすく、幼少の千葉頼胤(一二三九~七五年)を扶けるために移住してきた、越中に地頭職をもつ武士といいます。建長元年に閑院内裏造営にあたり、裏築地の押小路面二〇本のうち二本を、越中大田左衛門尉に課せられ、この造営にあたった、ほぼ二五〇名が北条氏をはじめとした各地の御家人で、千葉介も西対を担当していました。中尾尭先生は「太田保」と関係をもつのではないかとのべています。(『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。

大田氏は弘安元年に入道して、法名を妙日と改めています。弘安六年九月二六日に六二歳で逝去したといいます。先の『統紀』の説(七六歳)とは違うことになります。日蓮聖人と大田乗明との関係は、大田乗明の妻が日蓮聖人の従兄妹であることから、縁戚があったことがわかります。この関係から、大田乗明は曽谷教信とならんで、聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉った家柄であることが頷けます。このことから、日蓮聖人は大田夫妻を父母に準じて、乘明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたとしているのです。(『境妙庵目録』)。

 また、中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。ここに、三氏が日蓮聖人の家族を援助していたとする理由が、日蓮聖人の母親と縁戚であったことになります。日蓮聖人と富木常忍とは、血のつながりはありませんが、富木氏は無二の人といわれるほど信頼された人でした。しかし、経済的には裕福でなかったと書かれています。(「なれど貧者のゆえに意に任せざるなり」)。

大田乗明は『観心本尊抄』を直接あたえられた人物であり、学問にも精通し外護の信徒として布施を多く送っています。その妻も夫乘明とともに、早くから日蓮聖人に帰依し教化をうけています。日蓮聖人が鎌倉にいたときは、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれ、身延に入山してからも篤信の行いを続けています。文永一二(一二七五)年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)に、曽谷氏とともに越中に所領があったことがわかります。このころ大田乗明氏は越中にいたようです。

 

メモ、那波氏



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