googlebooksの部分なので、見えないところは想像で補っているのだが
「武州都築郡太田庄地頭の太田庄とある太田は、『永享記』にも太田郷地頭職と見えるが、都筑郡には太田はないから
、埼玉郡の太田の誤とある。大田 ... 注目すべきは右の資房は、「伊豆国多田氏より婿養子」とあることで、
このあたりから多田宗成(都筑郡太田庄地頭)とつながって…
上記の話は、実は自分のブログで恐縮だが繋がっている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2/e/3b998ca7c61bb3500c3bba414acd77e8
ブログの中にも「伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に参加した」とある。
これが本当ならば、この太田氏と源頼政・源頼朝・大江広元・多田仁綱とつながってくるのである。
多田氏のwikipediaをコピーすると
平安時代中期に摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した源満仲が「多田」を号したことから始まる。その後、多田の地は満仲の長子であった頼光とその子・頼国が継承し、頼国の五男・頼綱以降、嫡流が「多田」を号した。
頼綱以降では馬場氏族や山県氏族といった庶流を輩出しており、嫡流にあたる多田氏の系統は清和源氏一族の最も古い所領である多田の地を200年余りに渡って相続したが、源平争乱期に惣領であった多田行綱が源頼朝に疎まれ多田荘の所領を没収されると衰退し、以後一族の動向を伝える史料は断片的なものとなっている(行綱以前については多田源氏の項目も参照)。
多田氏の衰退後、『続群書類従』収録の「多田系図」などによると源兼綱の子である源頼兼(『尊卑分脈』では源頼政の次男とされる)が多田氏を再興し、伊豆国を地盤として鎌倉幕府とも繋がりを持ったとされる。この流れを伊豆多田氏と呼び、室町期には摂津国と伊豆国に領土を安堵されるが、永正年間(1504年 - 1520年)の足利将軍家家督争いで足利義稙側に付き没落したという。しかし、この伊豆多田氏については系譜や事跡に不明な点が多く実像がはっきりしていない。
鎌倉時代初期の多田経実に始まり大和の国人(衆徒)として存続した多田氏は源満仲の後裔と伝え代々佐比山城に拠ったが、別族とも取れる記述が見られるなど系譜が明確でない。また、大江広元の舅()であった多田仁綱は『安中坊系譜』によれば摂津国多田郷吉川村の出身で、源満仲の弟源満成の長男、左近将監満信の後胤であるという。仁綱の娘は広元との間に大江親広(寒河江氏の祖)を儲けているが、仁綱の名は『尊卑分脈』などの系図に見えていない。
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この満成は「満正」「満政」とも書く。
wikipediaより気になる点をコピーすると↓
子孫
後代、満政の子孫は長男・忠重の系統が美濃国から尾張国、三河国方面にかけて進出し、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出されたほか、次男・忠隆の系統は主に近江国を地盤として善積氏や雨谷氏、和田氏などを称した。また、三男・忠国は摂津との関係が記録に残っている。
善積氏が出てきた!和田氏が出てきた!
しかも「男子:源忠隆 - 鷹飼の達人斉頼の父。子孫は近江和田氏など。」とあるではないか。
この斉頼の娘は確か源頼政の妻となっている。
あと都築郡でしたっけ?あれも気になりますね。
各地の槻の木で調べるとどうも水運が関わってくるようですよ。相模国国分寺の近くの槻の木(ケヤキ)は船をくくり付ける木だったようです。つまり港付近にあったかも?です。
奈良で槻の木広場を探しに行ってきましたけど港だったかも?です。中臣鎌足と中大兄皇子の蹴鞠での出会いの場としての場所なんですけど、港だとしたらどちらかが水運でやってきてるかもです。どっちも中原っぽくも感じますけど太田気質なら鎌足ですね。サッカー蹴鞠も。ここはどっちかよく見極められない所です。
私のイメージは、生きてる人間を見る事だけなので人間ウォッチでの判断なので信憑性はないのですが意識して観察すると縁ある名字は明らかに明確です。
そうそう大江も大枝と考えると木の信仰なりもどうもベースありそうですよ。私は最近薬師堂があったか?でみ妄想してます。参考になれば。
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ケヤキ、なるほど! 面白いですね。
りひと様の発想力、素晴らしいですね。
蹴鞠とサッカー、ケヤキと港、どれも思いつかなかったです。
全部のコメントにご返事できなくてごめんなさい。ここで一括の返事でした。
昔から太田道灌の場所に出会ってしまい山吹って良く出てきて、早数十年?やっとこの前山吹里あたりの別件で行きまた太田ブーム来てます。
でランキング出来ましたけど、多田宗成(都筑郡太田庄地頭)って前回全く気にならなかったのにやけに目に飛び込んできてます。太田庄ってどこなのかな?って思うと別件で道頓堀で気になった場所違うかな?って思ってしまいました。こっちは治水関係の方が関東にいたら?って思って文字で昔行ったなあで思い出した神社なんですけど、この方のお名前と似ているんで笑っちゃいました。仁徳さんの頃も関東の方が治水で呼ばれているはずなので関東にもいないわけはないですし、逆に私の中でのカリスマ性ある多田さんが伊豆にも関わったのか?ならば都筑太田とも地頭だし縁は深読みしますね。
個人的な感覚では、旧石器とも関係ある遺跡があってなおかつ高い場所も並行してある場所でまた川がうねっている所が気になるんですよね。
なので都筑の太田庄、どこなんだろう?って。
三ヶ所候補がありますが、まさかた多田系が関わるなんて思ってはなかったんですけどかなりイメージは染まってきますね。タケミナカタさんは東京では限定されていますけど、スサノオとしてはかなりいますね。
東京の歴史は、源氏のお名前で一般的には維持されていますけどその手前が知りたいですしもっと昔奈良時代も知りたいんですよね。
多田さんが都筑郡に関わるだけでもかなり遡れた気がします。楽しみです。
もう一つ思いついたのが杉並の文字が逆なんですけど成宗という文字が付く神社に偶然お祭りの日に行ったんですよね。そこは頼義と白旗と中(成宗さんの名字が中野なのかな?中野左衛門尉成宗(成宗氏)の居館跡なの?)と個人的な好きなワード三つくっ付いてきました。道灌さんが絡むのか?は文字ではありそうですがあくまで伝説の説みたいです。
成宗って見てすぐ調べたんですけどね、今深読みしてます。でちょうど同じ日近くの川の鼻の地形にある熊野やお寺も相当周りまして父に関わりそうには思いましたよ。昔の事ですけど。地図みると尾崎熊野神社みたいですけど鎌倉街道走ってます。鎌倉時代も関係してそうですね。祭神は五十猛いる、杉山神社の祭神でもありますね。
候補地として思い付いた場所に過ぎないんですけど。
もう一箇所も調べてみます。