いろいろと探しているうちに、また加藤正方が登場してきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%96%B9
加藤 正方(かとう まさかた、天正8年(1580年) - 慶安元年9月23日(1648年11月8日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。熊本藩加藤氏の家臣。加藤可重の子。兄に重正。幼名は清六。通称は清左衛門。のち片岡の名字を名乗る。号は風庵。官途は右馬允。妻は秋月種実の娘。
その弟は正云。「加藤右馬九正方の弟にして片岡善兵衛を号す」と八代郡誌にある。
そして、ごさんべえさんのページに系図がある。
佐助の右に「片岡善兵衛跡相続」とある。
同じ片岡氏の系だろうか??
http://gos.but.jp/katokq.htm
もう一つ「源義経の家来片岡八郎経春の子孫と云われ、片岡荘に住み、その後裔民部丞範季は元弘年中足利氏に従って功績を挙げています。」と書かれた片岡家邑久郡南幸田村の記事!
http://gos.but.jp/kataokas.htm
調べてみると、岡山県史に「備前国片岡別宮の民部丞範季」と同じ名が出ていた。
1023年より石清水八幡領である片岡荘が備前国にあり、極楽寺領=元暦2(1185年)片岡別宮あり、と歴博DBにあった。
この備前の片岡荘の「片岡」であったのだろうか?
===*===
様々な片岡氏が出てきているが、もう一度「片岡経春(常春)弘経(為春)」に戻ると、経春の方は裔が備前国の片岡荘へ、弘経の方は上野国片岡郷へ、となるようである。
その弘経の方が、太郎経久に続き、更に「護良親王」と共に闘っていた片岡八郎は系図の中の利一である。
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「元弘元年(1331年)10月末(?)大塔宮一行は皆、柿色の法衣に笈を背負い頭巾を被り金剛杖を握り山伏の姿であった。一行の氏名は、赤松則祐・光林房玄尊祐・矢田彦七・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上義光・片岡八郎・平賀三郎の9人であった。
ただ、系図をよく見ると「経久」の息が「太郎大夫利仲」であり、これは、片岡=九里ではないと思う。
片岡利一が十津川で没したこと、楠木氏と共に闘い、後に楠木氏の娘が室となっている事(女紋は橘紋だそう)、和歌山にも九里氏がいる事、野長瀬氏と関係がありそうなこと、護良親王の母がもしかすると日野氏であるため、家司であった九里にも関係しそうなこと、等が重なっただけ、と今は思って、先に進もうと思う。
もう少しで何かはわかりそうなのだが…
片岡桂嫩 様(九里浄椿の法名…景徐周麟が付けてくれた)教えてください!