①平経久(伊勢氏へつながる)
②平経久=平子経久
③小倉経久
④片岡経久
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私の簡単な調査で分かったことは、
①の経久は、活動期は1300年代であろうと思われる。
また、前後の人名が「九里の祖である経久」とは違っている。
②の経久は、天福元年に「越後国山田郷」の地頭職に補任されており、活動期は問題がない。
周囲の人名は、(平子)経季が父親名となっているが、九里の方は経季は経久の息の名前となっている。
③小倉は横山党の小山氏より出ており、経久は文暦二年に没していて、法名は「生阿」という。
和邇氏関係からすると小野氏は近く、横山党小野氏にも関係がありそうだが、もう少し長生きをした経久であったように思うので、この方も違うようである。
④この片岡氏がもしも近江国伊香郡余呉片岡郷と関係のある「片岡」であるならば、関係がありそうである。
佐竹忠義の娘聟であったこと、千葉氏の中の海上氏、海上郡橘庄の近くの三崎庄と関りがある。
鹿島神宮の大中臣氏のそばに住んでいた片岡氏もいる(片岡親綱)。
接点となりそうなことが多い。
特に、佐竹氏は源義光(新羅三郎)がその祖である様で、佐々木氏の季定(初名為俊)は母親が新羅三郎の娘であること。
また、千葉氏の東氏より出ている「海上六左衛門胤泰」の娘が佐竹氏に入っている点。
東六左衛門の室となる佐々木氏(佐々隠岐次郎泰清の娘)というつながりもある。
さらに、依知(朴市)秦氏の末裔の東野氏とも関係がありそうなのである。が、経久の時代のあとである。
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以下はwikipediaより
佐竹行重開祖説
東野太右衛門氏所蔵の系図によると、代々常陸国の領主であった佐竹氏は、行重の代に近江伊香郡東野に封じられ、東野豊前守正五位となった。しかしその後間もなく、信頼していた兄の佐竹義昭が、常陸の小山の合戦で討死との知らせを受けた行重は、世をはかなみ、比叡山に入り東野法師と号した。その後、出家を理由に家門が没収となるのを憂いた行重は、東野に戻り三千貫を領して東野氏の祖になったとする。現在の長浜市余呉町東野にある、八幡神社境内横の高台に「東野豊前守の墓」と記された碑が立てられている。
ただし通説によると、ここで兄とされている佐竹義昭は佐竹氏の嫡流で第17代当主とされ、清和源氏ではあるが為義流ではなく義光流とされる。また小山は常陸国ではなく下野国にあり、義昭の没年は小山城を攻めた1562年ではなく、1565年となっている。
東野周防守行一開祖説
東野左京家に伝わる「東野家来歴書」によると、南北朝時代初頭、佐竹行重説の120年余り前に、東野周防守行一が、余呉庄東野の西方、現在の行市山の山腹にあたる場所に、城を築いて本拠としたとある。その後、行一の孫にあたる行宗は道義入道と称し、余呉湖北方に連なる尾根の東端、堂木山に城を築き本拠地と改めた。また、この系図には行一から数えて5代目にあたる人物として、行重という名前が記されており、東野太右衛門氏所蔵の系図にある佐竹行重と同一人物の可能性もある。
芸人さんがまた山にいると格別な存在感あるようですよ。とってもシビアですけど命と隣り合わせだとそれこそ大事なはず。
ある神社の西宮と東宮がありましてね。赤と青のイメージ。こちらの関係者は青路線、でも中に赤もあるはずですね。西野さんと東野さんにも注目です。
共通項がカモっぽく思ってきましたよ。
そうそう東京のテレビのコメンターさんの並びがまた興味深かったです。坂上さんの番組に清原氏と佐々木氏と藤井氏が並んでいました。勝手にキャーと叫んでいましたよ。若狭さんも弁護士のコメンテーターさんですし、日本の治安も少しその筋復活してくれるとただ大声とか知識なくても叫ばれるとそうなのか〜?って納得してしまうのが少し論理的に物事の側面を分けて理解するために説明してくれてすり替えられずに突っ込むべき事に着目出来るようになるかもしれませんね。
それぞれ役目と特性があり、みんなの発言があってこその本筋の改善になっていくといいですね。