まず、【差出】 伊庭満隆
【宛所】 山中太郎左衛門殿/九里次郎左衛門殿 …とあるように、共に同じような立場であった可能性があること。しかし、たった一通しかない書状で、しかも内容も不明であるためなんとも言えないが、ともに室町幕府の御家人だったのではないだろうか。
また、山中氏が伊勢神宮の御厨の地頭(代官)であったように、九里も賀茂神社の御厨である舟木庄の代官であったため、ここでも、立場が似ていると思う。
そして、九里がもしも真野氏と関係があるならば、【鈴鹿】との関係があるところも、また似ている。
山中氏は【鈴鹿土山町山中村】とかかわりがあり、九里氏が浅小井氏(または真野氏)だとすると、深尾氏に分かれ、系図によると
平治の乱に敗れて【伊勢鈴鹿山中の員弁郡深尾谷】に隠遁し深尾氏を冒す。
文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕へる。
等、web情報にあったので、いなべ郡深尾谷とかかわりがある。
ここの村は、ダムの中に水没しており、場所を掲載しておこうと思う。
【宛所】 山中太郎左衛門殿/九里次郎左衛門殿 …とあるように、共に同じような立場であった可能性があること。しかし、たった一通しかない書状で、しかも内容も不明であるためなんとも言えないが、ともに室町幕府の御家人だったのではないだろうか。
また、山中氏が伊勢神宮の御厨の地頭(代官)であったように、九里も賀茂神社の御厨である舟木庄の代官であったため、ここでも、立場が似ていると思う。
そして、九里がもしも真野氏と関係があるならば、【鈴鹿】との関係があるところも、また似ている。
山中氏は【鈴鹿土山町山中村】とかかわりがあり、九里氏が浅小井氏(または真野氏)だとすると、深尾氏に分かれ、系図によると
平治の乱に敗れて【伊勢鈴鹿山中の員弁郡深尾谷】に隠遁し深尾氏を冒す。
文明年間(1469-1486)美濃守護土岐氏に仕へ山縣郡太郎丸の城主となり、 土岐氏歿落後は斎藤氏に仕へる。
等、web情報にあったので、いなべ郡深尾谷とかかわりがある。
ここの村は、ダムの中に水没しており、場所を掲載しておこうと思う。
深尾氏は、浅小井(あさごい)氏から出た浅小井深尾氏と、真野氏から出た真野深尾氏に2大別されます。
今のところ、両者は佐々木庶流の内ですが、別系統です。
伊勢の深尾村に関係するのは、浅小井深尾氏です。
https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/folder/1553064.html?m=l&p=1
近江から美濃へ移った美濃深尾氏は、真野深尾氏の分家です。
浅小井深尾氏は10代目・加賀守元範と11代・加賀守元秀の二代が、浅小井城主として最も勢力のある時期だった。元秀の嫡子・加賀介秀長は深尾家を継いだが、佐々木六角の重臣・伊庭下総守資長が六角氏に天文年間に反乱を起こした時、これに味方してそれが露見し、天文年間に城を棄てて蓄電・行方不明になってしまった。それは、秀長が六角氏に対する戦いに加わったのではなかった。伊庭氏に味方した九里(くのり)三郎左衛門が六角氏との黒橋の戦いで討ち死にしたのは大永五(1525)年であった。深尾氏は九里氏と姻戚関係にあったため、討ち死にした九里氏の遺児・三郎丸をひそかに引き取って、浅小井城にかくまったのである。それが後に露見して天文年間(1532ー1555年)に姿をくらましてしまった。
秀長には弟が居て、幼名・須賀介と言ったが、兄が謀反の罪に問われて姿を消したので、浅小井城は六角氏に召し上げられ、禄を失って閑居することになった。深尾家は断絶したのである。その後、同族の晴松軒入道の取りなしと懇願によって罪を許され、わずか1500石だったが禄を与えられた。これで弟は11代・元秀の後を継ぎ、12代左衛門佐元忠と名のって深尾家を再興し、佐々木六角氏に仕えた。
以上。
貴重な情報を、そして浅小井深尾氏には大変な苦労を敷いてしまったことを教えていただきありがとうございました。
この「近江源氏 三巻」は札幌市内の図書館にはなく、取り寄せなくてはならず、いまだ読んでおりませんでした。
深尾氏のことは気になっており、たつや様のブログも拝見したことがございました。本日は、本当にありがとうございました。
浅小井深尾氏と九里の接点、私も調べてみたいと思います。他にもございましたら、教えてください!!!お願いいたします。
その時、伊庭氏の被官九里氏が伊庭氏からやむを得ない事情により、反乱を起こすことになったため、なにとぞ後詰めになってもらいたいとたのまれ、剛勇の九里三郎左衛門尉はこれに応じて岡山城(現・近江八幡市牧町)に籠もり、伊庭氏の呼応した。
伊庭氏も自城の伊庭城では佐々木氏の本城・観音寺城とはあまりに間近であって極めて不利であるため、密かに奥島山や長命寺に兵を集めて事を挙げた。それに対して観音寺城の佐々木氏は、旗頭の諸将に命じて双方の討手に向かわせこれを討ち滅ぼした。
打ち破られた伊庭下総守は遠くに逃れたが、九里三郎左衛門は音に聞こえた武将であり、寄せ手が岡山城に向かうと、城門を開いて城から打って出て、いったん寄手を打ち破って黒橋川まで追い返したが、ここで踏みとどまった佐々木軍との血戦の末、ついに黒橋川で討ち死にした。
私は2巻と3巻を持っていますが、これ以外に九里氏の記述は知りません。
コメント、ありがとうございました。近いうちに、深尾村の地図を拝借したいと思います。
ありがとうございます!
これは一度目の反乱の時でしょうか?
黒橋川のあたりに九里の碑がありました。
九里は何度か、ココで戦い、亡くなっているようです。
伊庭氏との関係や深尾氏との関係も、同族であった可能性を感じます。三郎左衛門の婚姻関係よりもずっとずっと以前からかもしれませんね。九里に関わらず、土岐氏と接点があった事にも興味があります。
地図、私も何かにヒントを得て、ココにポイントしたと思うのですが、web名などよく覚えておりません。深尾谷とあったように思います。ダムの中になってしまったようです。
深尾氏の潜んだ場所と合っていると良いのですが。。。
ご使用に関しましては、どうぞ~どうぞ~お使いくださいませ。
わかりませんね。
「天文年間」としか・・。
私は、「伊勢の深尾村」に行ったことがあります。
場所はこれで合っています。
それでは、使わせていただきます。
ありがとうございます。
深尾氏との関係から何か繙けないか、調べてみます。
今回は、本当にこのような情報を教えていただきまして、ありがとうございました。